こんにちは

日々雑感
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ながらく投稿しなかったので、挨拶は、こんにちは、になります。仕事などで忙しくて、あまり書く気力が沸かなかったのですが、時間が経つうちに、また書きたくなってくるものです。例えて言うなら、便秘が続くと、トイレに行きたくなるようなものでしょうか。そうすると、ここに書いていることは、○○○と言うことになります。....? かといって、あまり馬鹿なことを書くのは、不謹慎であります。間違ったことを書くなら、天罰をくらいます。このように考えると、自然と口が重くなってしまいます。けれども、それでいいのかな、と思います。ヒンズー教では、沈黙行というのがあるそうで、ガンジーさんも、一時期、これを実践されたそうです。その真意は、私はよく知らないのですが、おそらくは、このような事情ではないかと思います。口は災いの元といいます。一度、発した言葉は、引き戻すことができません。良い言葉をかたるなら、世間を明るくしていきますが、有害な言葉は世の中を混乱させて、その償いをさせられます。ものを動かした分量に応じて、贖罪が必要とされます。言葉は、一面、恐ろしいものです。このことを知った人は、おそらく、語る言葉には最大限の注意を払うのではないかと思います。

物事を語るには、体験を元にすることが重要です。本を調べて書いたり、頭で理屈を考えて文章にしても、説得力がありません。そうすると、当然のごとく、書く内容と範囲にも制限が出てきます。人間はすべての事象を体験できるわけではないし、また、他人の悩みについても、その人の心の奥底までは、なかなか理解できないものです。自分の体験を通して、類推するしかありません。それも、おそらく、そうではないだろうか、と言えるだけです。断言する人は、自分を知らない人ではないかと思います。謙虚さが、自分を救う、最後の砦になってくれます。人間は自分でも気づかないうちに、歪んだ方向に行ってしまうものですから。

最近、チベット仏教の、偉い人が書いた本を読みました。西洋社会に暮らしていて、仏教について哲学的考察をされているのですが、読んでいて、頭の中が?になりました。これが現代における仏教の理解なのだろうか、と少し驚きもしました。少しだけ言うと、人間の実体は五蘊というものであり、それ以外には何もない。また、ヒンドゥー教における、「見ている自分」というものは存在しないし、魂の輪廻転生もない、物事の本質は無である、などなど。

 お釈迦様の教えを完全に理解するには、お釈迦様と同じ境地に行かないと無理でしょう。理解できないものを、理屈だけで理解しようとすると、大きな間違いをおかします。それ故、人間に大切なのは、信じることです。信じることで、徐々に、理解を与えられると思います。また信じることで、理解できるような体験をできると思います。この学者さんも、もしもお釈迦様の体験を少しでも共有できれば、こんなことは書かなかったと思います。それは、人間は心を浄化していけば、自ずから、魂の実在を実感できるものであり、また、転生についても、おぼろげに、心に浮かんでくるものです。そのような体験を経ることなく、理論ですべてをまとめようとすると、人間はますます無知蒙昧に陥っていくものです。けれども、こんなことを書いていても、実は私も、あまりよくわかってないですけどね。

 以前、テレビで、若い仏教徒が、「仏教の本質は、すべては無であるということなのです」と、したり顔で言っていて、それを横で見ていた、昔、詐欺事件を起こして、服役後、今はテレビやネットで人気の人が、うさんくさいものを見るように、横目で見ていたのを思い出します。この人に賛同すrるわけではありませんが、すべてが無なのなら、人間は存在する必要ないし、努力する必要もないじゃんか、と私は思ったものです。仏教は、迷える衆生を救うために説かれたものであり、人間の存在を哲学的に考察するものではないと思います。

また、これから、時々、つまらないことなど、書いていきますので、よろしくね。