慌ただしかった今年の8月も、終わりに近づきつつあり、町を歩きながら、ふと、空を見上げると、青空はどこまでも広がり、木漏れ日がまぶしくきらめく、街路樹の間を歩いていくなら、世間で騒いでいるコロナウィルスなど、どこにあるのか、と思ってしまいます。ベランダにオリーブの木を置いていますが、今年はたくさん実ができたので、これでパスタ料理などしようかと思っています。
今はラーマーヌジャの生涯についてまとめています。英語の資料はたくさんありますが、日本語で書かれたものは、あまり無いようなので、皆さんの参考になればと思います。ラーマーヌジャは、シャンカラの説いた不二一元論(Advaita)に異を唱えて、当時のブラーフマナ達を討論で打ち負かし、被限定者不二一元論、または修正不二一元論(Vishishtadvaita)を打ち立てたとされますが、おそらく本当のところは、シャンカラの説いた不二一元論は、時代を経るに従って、歪んだ理解がなされるようになっていき、当時のブラーフマナ達は、その生活態度は、信仰というよりも、哲学的思索に陥ってしまっていて、そのような中で、彼らの理解は「人間は、非人格的なブラフマンと同じである、ないしはそのブラフマンと同じになることが、梵我一如の境地である。そしてこの現象世界は、単なる幻に過ぎない」というように解釈していたので、それに対して異を唱えたように思います。けっしてシャンカラの教えに異を唱えたのではないようです。確かにシャンカラは、そのような趣旨のことを言っており、それは真実の一面ではありますが、真実のすべてではありません。シャンカラの説いたことをよく読むなら、それが理解できると思います。
これに対して、ラーマーヌジャが唱えたことは「ブラフマンとは、主の偉大な属性であり、主はそれら属性をもたれるが、それらを超えて存在される、そして人間は悟っても、ブラフマンと同じ性質にはなるが、ブラフマンと同じにはなれず、また個の魂はどこまでいっても、主に依存した状態であり続けて、主に奉仕していく存在である、またこの現象世界は、決して幻ではない」というように言われたようです。仏教が、最初にお釈迦様が説いたものから、どんどんと変質していったのと同じようです。けれども、ラーマーヌジャに関する日本語の資料は、非常に難しくて、読むのに苦労します。一般大衆の救済を目指して、平等な社会を作ろうとしたラーマーヌジャが、はたして、そんなに難解な説明や講義をされたのか、と、疑問に思います。おそらくラーマーヌジャに関する理解も、今は哲学的になりすぎて、その言わんとされたことが不明になったのだろうと思います。
最近は、ネオアドヴァイタ(Neo-Advaita)とか、ワンネス(Oneness)かいう、新しい哲学?が流行っていて、人間も、そして世界も、すべて幻にすぎない、また人間は瞑想によって、全存在と一つになれる、それゆえ、悲しみも苦しみも、本当は存在しないのだ、だから悩むことは何もないのだ。すべては無だから、というようなことを言っている人が出てきているみたいですが、なんだか、歴史は繰り返すのだな、と思わされます。歴史を学ぶ意義は、人間の愚かさを知ることではないかと思います。
堀田和成先生は「ラーマーヌジャと言う人は大変苦労されたのです」と言っておられたので、どんな苦労をされたのかと気になり、調べることにしました。調べてみると、本当に、波瀾万丈の人生です。まず最初に、自分の教師に異を唱えた結果、殺されそうになります。次に、奥様がプライドの強い人だったので、離婚する羽目になります。そして寺院の高僧によって、毒殺されそうになります。最後に、シヴァ神を信じる国王に改宗を迫られて、弟子がその身代わりになり、目をくり抜かれてしまいます。なんだか恐ろしいですね。そういう時代だったのかな。今は平和で、ありがたいことです。