「ラドネジのセルギイ」小伝  その3

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☆ パンの奇跡 ☆

キリストの使徒パウロは、伝道中であっても、他の人の重荷にならないよう、自分の生活費は自分で稼ぎだした。セルギイもこれに倣って、弟子たちには自分たちの生活の糧を、物乞いではなく、労働によって得るよう指導した。そしてもし食べ物が得られない時には、ひたすら神に祈りを捧げて、その恩寵を待つようにと言った。セルギイは弟子たちに言うだけでなく、自分自身がそのように行動して、彼らに手本を見せていた。セルギイの修道院は、周囲を数キロもの森で囲まれており、そこでは狼や熊が徘徊するため、誰も危険を冒してまで彼らのところに食べ物をもって来ようとしなかった。またその頃のセルギイの修道院では共同生活を行っておらず、彼らが集まるのは教会の儀式の時だけで、それ以外はそれぞれが自分の庵ですごしていた。食事も各自が自分たちの庵で食べて、共同で行うような作業も存在しなかった。そんな彼らは、しばしば生活必要品にも事欠くことがあり、時にはパンや塩、小麦も手に入らなかった。しかしそのような時でも、セルギイは神への信を揺らがせず、必ず神の助けがあることを信じた。そしてそんなセルギイの堅い信仰に、神は必ず応えてくださるのだった。教会の聖餐式に使うワインや、聖なるパンを作る小麦、そして香炉に用いる香も無く、さらにはロウソクのためのロウや、ランプの油も無いことがあったが、そのような時には、樹を燃やして明かりの代わりにした。また聖書も、羊皮紙ではなく、木の皮に書いたものを用いたりした。けれども真心をこめてされた彼らの祭式は、神にとっては、煌びやかな教会で行われるものよりも喜ばしきものであった。この修道院で使われていた遺物が今も残っているが、慎ましやかな木製の祭具と、彼らが着ていた粗末な衣服を見ると、彼らがいかに質素な生活をしていたかが分かる。

セルギイは食事に関して無頓着だったため、しばしば彼が一番初めに食べ物に困るようになった。しかし幼少のころから質素な生活に慣れていたセルギイは、そのような状態を喜んで享受して、そんな彼の姿は、仲間たちに対して自然の模範となった。村人の中には喜捨を持ってくる者もいたが、その場合、その人が善良な農夫の場合のみ受け取り、弟子たちに対しては、決して主への信を失ってはいけないと諭した。そしてそのような彼の言葉は、決して実証されないことがなかった。ある時セルギイはパンと塩がまったく無くなり、修道院全体でも食べ物が欠乏したため、彼は3日間にわたって絶食したが、4日目の朝になると、彼は斧を手に持ち、弟子である年老いたダニエルの庵に向かうと、次のように述べた。「あなたは以前から、庵に玄関を作りたいと言ってましたね。どうかそれを私に作らせてください」それに対してダニエルは「そうです。材料はすべてそろっていて、大工が村からくるのを待っているのです。あなたがしてくれるのならお願いしますが、その場合、お金を払う必要がありますか?」と聞くと、セルギイは「お金は払わなくていいです。パンを頂ければそれで結構です。私は大工としても十分働けます。だから村から大工を呼ぶ必要はありません」それを聞いたダニエルは、カビが生えたため、自分ではとても食べられないパンを取り出すと「このパンでよければ、これを代金として受け取ってください」と言った。その後セルギイは大工仕事に没頭して、日暮れまでには玄関を完成させてしまった。ダニエルは約束通り、カビの生えたパンをセルギイに提供した。セルギイはそれを受け取ると、水と一緒に食べ始めて、その時、彼の口からは、パンくずと共に、カビがこぼれ落ちるのだった。それを見た周りの弟子たちは、セルギイの忍耐力に驚き、またそのようなパンであっても、労働なしでは受け取らないという彼の高潔な精神に、非常な感銘を受けたのだった。

しかしながら弟子たちは、村人から供物を得てはいけないというセルギイに対して、徐々に不満を募らせていった。ある時ひとりの弟子は、弟子たちをそそのかして、このような規則は理にそぐわないと言い出し、彼らは全員でセルギイのもとに向かうと、もはやこれ以上空腹に耐えれないので、私たちは全員、明日にはこの修道院から出ていくと告げた。セルギイは何とかして彼らを宥めようと説得したが、そのように彼が苦心しているうちに、修道院の玄関で番人をしていた弟子が走ってきて、このように彼に報告した。「たったいま、キリストを愛する見知らぬ人が、パンを荷車にいっぱい積んで持ってきてくれました!」そしてその荷車に続いて、次から次と荷車に載せて食べ物が運ばれてきたのだった。

☆ 奇跡の泉 ☆

セルギイは、庵を作って暮らし始めた当初、飲み水のことは深く考えなかった。彼は遠くまで水を汲みに行くことに喜びを感じて、労働に励んだのだが、修道院が設立されて7年ほど経過すると、弟子の数も徐々に増えてきたために、水の不足が大きな問題となっていった。弟子たちは泉までの距離が長いことにしばしば不満をもらして、中にはセルギイに食ってかかる者もいた。「そもそもどうしてこんな場所に庵なんか建てたのです?」このように不満を漏らす弟子に対して、セルギイは「私はひとりで静かに暮らしたくて、この場所を選んだのです。そしてここに修道院を建てるというのは、神の意思なのです。どうか神に祈り続けて、失望しないでください。ヘブルの民が荒野で嘆いた時、神はそれを聞きいれて、岩から水を出されたではありませんか。そのように慈悲深き神が、昼も夜も神に仕えるあなた方を、見捨てるわけがないではないですか」セルギイはそう言うと、ひとりの僧を伴い、修道院の下にある森の中の渓谷へと向かった。そしてそこに雨水がたまっているのを見ると、その場に跪き、静かに神に祈り始めた。祈りを終えた後、セルギイがその雨水で地面の上に十字架を描いたところ、突然にその場所から冷たい水が噴き出して、それはあふれるように渓谷へと流れていった。それ以降、弟子たちは水に少しも困らなくなり、またその水には病人を癒す力があったので、噂を聞き付けた多くの人がそれを求めてやってくるようになった。セルギイはその後、一般の人々が修道院の近くに住むことを認めたため、人々は修道院の周りに、森を隔てて、村落を作るようになり、そこで畑を耕して暮らすようになった。その結果、修道院に必要なものは、彼らがすべて提供するようになった。また当時、モスクワから北へ向かう大きな道路があったが、セルギイを訪れる人々の便宜を図るために、それは修道院のそばを通るように変更された。けれども、セルギイの修道院が最初にできた時、それは人里離れたところに、隔離した環境として建てられたことは、ロシアにおける修道院の模範となっていった。

☆ 共同体としての修道院の復活 ☆

それまでのロシアの修道院は、本来のあり方である、共同体ではなかった。しかしセルギイはそれを本来の姿に戻していった。共同体という意味は、聖典には「僧となった者は、個人的所有物を持つべきでない」とあり、つまり僧として出家した者は、この世を捨てた者なので、彼らには所有物は要らないことになる。また共同体の原型は「イエスを信じる者はみなが心と思いをひとつにして、だれ一人として財産を惜しまず、すべてのものを平等に分かち合っていた」(使徒行伝4‐32)という記載にある。これは、誰もが自分のものという概念を捨てて、すべてのものを共有とすることで可能となる。もちろん、これは修道院での生活であって、一般人に当てはめることはできない。そしてセルギイは、修道院において、このような共同体を作ることに力を入れていった。それまでは、彼は弟子たちに精神面での助言を行うだけだったが、これ以降、彼らの生活必需品についても腐心する必要が出てきた。そこで彼は健康な者は全員が労働に従事するよう命じて、各人の役割分担を定め、共同生活での規則も定めていった。暇な時には手作業をするよう指示されたが、その中心的な仕事は、聖書の写本と、それら写本の表紙に使う皮の作成だった。僧たちの衣服と靴は、すべて修道院から支給されるようになった。セルギイ自身が仲間のために衣服と靴を作ったりもした。セルギイは修道院の規律を厳密に守り、上に立つ者は人々に謙虚で優しく接して、下の立場にある者は上長者の指示に従うよう命じた。修道院が大きくなるにつれて、弟子の数も増えていき、物質的にも豊かになっていったが、これが怠惰や堕落につながることを危惧したセルギイは、これからは、修道院として、巡礼者を受け入れるようにと指示した。このことを、セルギイは非常に重要視して、神の祝福があることを約束して「もしこの私の教えに正しく従うなら、この修道院は、私の死後においても、キリストの恩寵によって栄え続けるでしょう」と彼らに説明した。

☆ 仲間割れの危機 ☆

しかしその後、セルギイの兄ステファノが修道院にやってくると、それは大きな悲しみをも、もたらしたのだった。ステファノは、モスクワでの修道院長としての立場を捨てて、厳しい自己抑制の生活を送ろうとやってきたのだが、彼の心からはまだ支配欲が消えておらず、自分はセルギイの兄で、この修道院の基礎を共に作ったのだという思いのため、彼は次第に権力を求めるようになっていった。僧たちの中には、セルギイが定めた厳しい戒律に反発して、ステファノに同調し、セルギイを追い出してステファノを長としようとするものまで現れた。ある土曜日、セルギイが夕刻の祈りを捧げて祭壇に立っている時、そばにいたステファンは、詠唱者が、自分ではなく、セルギイから祝福を得た聖書を手に持つのを見ると、非常に憤慨して「ここでは誰が長と言えるのか? 私はこの場所を最初に作った人間なのだ!」と言い、さらにその後セルギイを汚く罵って、その罵倒の言葉は教会中に響き渡った。セルギイはその言葉を聞くと、夕刻の勤行が終わったあと、みなが教会を出ていくと、誰にも告げずに、静かに修道院を去っていった。セルギイはその後、マコヴィッツより37キロほど東にある、友人マーリシュキンスキの修道院に向かうと、新しく修道院を興したいという自分の思いを彼に告げた。その後、森の中で適切な場所を探していたところ、キルザッハ川のほとりに相応しい土地を見つけたが、そこは至聖三者修道院から50キロほど南東に位置するところであった。しかし至聖三者教会の修道院に暮らす僧たちは、セルギイが突然いなくなったことに困惑してしまった。彼らはあちこちと探し回ったが、どうしても見つけることができなかった。それを知ったマーリシュキンスキは、セルギイは現在、別の場所に住んでいることを彼らに知らせた。それを聞いた僧たちは、ひとり、またひとりと、セルギイのもとへと向かい、そこに自分たちの庵を建て、共に住むようになった。彼らは府主教アレクシイに連絡して、新しい教会を建てる許可を彼から求めた。セルギイと弟子たちは府主教の許可を得ると、直ちに教会と修道院を建てていった。そして地域住民や貴族たちの協力により、聖母マリアの受胎告知を記念する教会を建設することができたのだった。

ステファノがその後、至聖三者教会の修道院長になろうと思ったのかは不明だが、弟子たちの全員はセルギイの帰還を求めて、いくどもセルギイに連絡を送った。しかしセルギイはどうしてもその要請を聞き入れなかったため、困り果てた彼らは、府主教アレクシイに頼み込むことにした。アレクシイはセルギイに帰還するよう求めて、さらに、彼を困らせる者はすべて取り除くと、彼に約束した。その結果、セルギイはもとの修道院へと帰ってきて、キルザッハに建てた教会は、セルギイの弟子のひとりが管理することになった。この時セルギイは50歳を超えており、マコヴィッツで暮らすようになってから、すでに30年が経過していた。その後、多くの僧がセルギイの指導を求めて、自分たちの所属する修道院を離れ、至聖三者教会へとやってきた。またステファノはその後、自分の行動を反省して、息子のテオドールと共に、以前と同じように修道院にとどまった。セルギイはこの神の計らいに感謝して、以前にもまして熱心に仲間たちのために祈るようになった。

☆ 未来の預言 ☆

ある夕暮れ、日課を終えたセルギイが弟子たちのために祈っていると、彼は突然に自分の名を呼ぶ声を聞いた。静けさの中でその声を聞いたセルギイは、非常に驚き、祈りを捧げたあと、窓を開けると、そこには素晴らしい光景が広がっていた。空には太陽よりもまぶしい光が輝き、その輝きによって、あたりの闇は駆逐されていたのだ。セルギイは再び自分の名を呼ぶ声を聞くと、それはこのように言った。「セルギイよ、あなたは弟子たちのために祈り、主はあなたの祈りを聞き入れられました。周りを見てみなさい。今やあなたのもとには、あなたを頼って、至聖三者の名のもとに、多くの人々が集まってきているのです」セルギイが周りを見回すと、そこには今まで見たこともないような美しい鳥が、群れをなして、喜びにさえずりながら修道院の周りを飛び回っていた。そして天からはなおも不思議な声が響いて、このように告げたのだった。「あなたの弟子は、これからもますます増えていくでしょう。あなたがいなくなった後も、その数は少しも減ることがなく、彼らはあなたを見習うことで、それぞれが素晴らしい徳を与えられるでしょう」これを聞くとセルギイは喜び、彼の心は歓喜に満たされた。予言は彼のみならず、彼の弟子たちについてもなされたので、彼はこの喜びを分かち合おうと、隣の庵に住む弟子のシモンを呼び寄せた。しかし彼がやってきたときには、夜空にはまぶしい光が見えただけだった。セルギイは自分が聞いたこと、見たことをシモンに伝えると、2人は主の約束に喜んで、また大いに勇気づけられたのだった。

☆ 府主教アレクシイの申し出を断る ☆

府主教アレクシイは、自らの死期が近いことを悟ると、自分のあとを継いでもらいたく、セルギイをモスクワへと呼び寄せた。セルギイは高齢になるまで馬には乗らず、徒歩で移動することを好んだが、この時も彼は歩いてモスクワへ向かった。アレクシイは到着したセルギイを歓待すると、金の十字架が刺繍された、府主教の紋章を持ってこさせて、それをセルギイに渡し、どうかこれを受け取って欲しいと言った。セルギイはその意味が理解できないかのように「若いころから私は金の施された衣服など着たことはなく、このような高齢になっても、貧しいままに生きることを望んでいるのです」と返事した。それを聞いたアレクシイは、自分のあとを継いで府主教になってほしいという自分の本心を、セルギイに告げた。しかしセルギイはそれを堅く断り、自分は今まで通り、人里離れた修道院で生きていきたいと返事した。アレクシイは幾度も頼み込んだが、セルギイの決心が堅いことを知ると、最後には仕方なく、セルギイが帰っていくことに同意したのだった。府主教アレクシイはその数か月後、静かにこの世を去っていった。

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