「ラドネジのセルギイ」小伝  その2

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☆ 悪魔のささやき ☆

悟る前のイエス・キリストの前に悪魔が現れ、彼を試したように、修行に励むセルギイのもとにも悪魔が現れて、その悟りを妨げようとした。ある時、夜明け前の務めをするために、セルギイが教会に入って祈りを唱え始めると、教会の壁が真っ2つに割れて、その間から、泥棒が入ってくるように、サタンが多くの従者を従えて入ってきた。彼らは全員が、先の尖った帽子と、リトアニア人の衣装を身に着ていた。(リトアニア人は当時、タタール人と同じように恐れられていた)彼らは一斉に教会になだれ込むと、どう猛な叫び声をあげ、憤怒に歯ぎしりをして、その口からは炎を吐き、セルギイを次のような言葉で威嚇した。「おい、お前、直ちにここから出ていけ! 俺たちは何一つお前に害を加えなかったのに、どうしてお前は俺たちに危害を加えるのか! もしこれ以上この地にとどまるなら、俺たちはお前の身体を細切れにしてやるからな!」このような脅しにも、セルギイは心を揺るがせず、冷静な心で神に祈り続けた。そうするとそれら悪霊は祈りの光に耐えられずに、直ちに消えてしまった。またある時には、セルギイが庵に入ろうとしたところ、その床の一面に無数の蛇がうねっており、とても中に入ることができなかった。さらにある時には、セルギイが夜に聖典を読んでいると、恐ろしい木霊が森の中に響き渡り、やがて庵のまわりは悪魔の叫び声で満たされていった。「早くここから出ていくんだ!お前はどうしてこんな森の中に来て、ここで何をするつもりなのだ? ここで長く住もうなんて思ってはならないぞ。この地には誰も住んでおらず、誰も訪れることがなく、お前は飢え死にするかもしれないのだぞ。それが怖くないのか? また浮浪者に殺されるかもしれない。森の中には獣が徘徊して、たえずお前を引き裂こうと待ち構えている。俺たちはお前をここにひとり残したくないのだ。こんな荒れ地で生きていくのはよくないことだ。ここには何もないのだ。だから死にたくないなら、一刻も早くここから逃げ出すことだ。でないと俺たちがお前を葬ることになるだろう」このような悪魔のささやきを聞くと、セルギイは再び神に祈りを捧げた。すると神はただちにセルギイの心に力を吹き込み、その結果、悪魔たちは消滅してしまった。また悪魔たちは野生動物の姿をとってセルギイのもとに訪れて、彼を脅したりしたが、それらはすべて神の力によって退けられた。このような神の御業を知ると、セルギイの心は歓喜に満たされて、いまや神が自分を守ってくださり、自分は悪魔の誘惑を超える力を授けられたことを理解した。セルギイが修行を始めた当初、このように悪魔が妨害をなしてきたが、ひるがえって言うなら、これは悪魔がセルギイの力を非常に恐れて、またこの地が神にて聖別された地になることを恐れたからである。

ひとりで森の中で生活すると、狼や熊に襲われる危険性があったが、神の力によって悪魔を撃退した後、セルギイはもはやそれらの野生動物を恐れなくなった。セルギイが祈りを唱えるや、庵に近づいてきたそれらの獣は、恐れをなして、慌てて森に帰っていくのだった。ある時セルギイは、庵の前に大きな熊がいることに気づいた。その様子から、熊が空腹に苦しんでいるのを理解したセルギイは、その熊を憐れんで、自分が持っていたパンの一切れをその熊に与えた。熊は喜んでそのパンを食べると、森の奥へと帰っていった。それ以降、セルギイが悪意を持たないことを知った熊は、しばしばセルギイのもとを訪れるようになり、セルギイになつくようになった。セルギイは、自分が断食行をしている間は、パンは不要なので、時にはパンのすべてを熊に与えたりした。セルギイはパン以外の食べ物を持たず、それゆえパンを与えれば、彼には食べるものがなくなるのだった。そのようなパンは、ラドネジに住んでいた弟のピョートルが、セルギイのもとに届けていたようである。こうしてセルギイは、生きるに必要な最低限のものを捨てても、それでも生きていけるように、自己を訓練していった。また熊のような獰猛な生き物を優しく扱うと、彼らが自分になつくのを見て、生き物は、害をなそうとしない人間には、本来、従順に従うものだと理解した。このようにしてセルギイは孤独の環境の中で神に仕えていき、やがてそのように暮らすうちに、ついに彼が隣人たちに仕える日がやってきた。

☆ セルギイのもとに人々が集まりはじめる ☆

あなた方は世の光です。丘の上にある町は、夜になると灯がともり、誰にも見えるようになるでしょう(マタイ福音書5‐14)と書かれるように、隠者として暮らすセルギイの噂は、やがて近隣の人々の耳に入るようになった。セルギイの庵から放たれる、神聖で清らかなひびきは、心を清めたいと願う人々の心に伝わっていった。当時のロシア社会は荒廃しきっていて、その悲惨な状況を厭うた人々は、都会を離れて、田舎に住むようになっていた。そんな彼らが、森にすむ聖者のことを聞くなら、自らの救いを求めて、彼に関心を持ったのは、ごく当然のことであった。セルギイが隔離した環境で数年を過ごすうちに、ラドネジの近くに住む人々は、森で暮らす若い隠者のことを噂し始めた。厳しい自己抑制と、勤勉な労働、慎ましく穏やかな性格、清らかな心と神への献身、これらの美徳を聞いた人々は、彼のもとに集まり始めると、彼からの助言を求めて、精神の修養となる話を聞くことを願った。そんな彼らの中には、セルギイのそばに住みたいと望む者も出てきた。はじめの頃、セルギイはひとりで修養することを望んだので、そのような依頼を聞くと、困惑してしまった。またこの厳しい生活に、果たして彼らは耐えれるだろうかと、不安を抱いたりもした。「この場所がどんなところか知っていますか? ここでは空腹と渇きは日常茶飯事で、必要なものでさえ、容易には手に入らないのです。あなたたちは、このようなところで暮らす自信がありますか?」そのように聞くセルギイに、彼らは「私たちはその覚悟があります。どうか私たちを受け入れてください!」と答えたため、彼らの固い決意を知ったセルギイは、キリストの言葉「私のもとに来る者を、私は拒むことはしない」(ヨハネ福音書6‐37)を思い出すと、彼らを受け入れることに同意して、次のように彼らに告げた。「私は終生をひとりで暮らそうと考えていましたが、神の言葉を思い出したので、その考えを改めました。すなわち、聖書には「私の名のもとに数人が集まるなら、私はその中にいる」(マタイ18‐20)とあるからです。それゆえ私は、その神の言葉に従うでしょう。そしてここに修道院をつくることにしましょう。けれどもあなたたちは、如何なる困難や悲しみにも耐えなければいけません」

その後、かれらはセルギイの庵の近くに、自分たちでそれぞれの庵を建てて住み、従順な幼子のように、セルギイから精神的な助言を受けるようになった。弟子の数はその後も徐々に増えていき、ついには12人を数えることになった。こうして大所帯となった彼らは、安全のために、庵の周りに杭を設けて、獣たちの侵入を防ぎ、また空いた土地に野菜を植えて、質素な自分たちの食べ物の材料とした。初期の修道院はこのように、非常につつましやかなものであった。ここにはまだ修道院長や司祭はいなかったが、彼らは規則に厳格に従って生活した。彼らは毎日、定められた祈りの時間になると教会に集まって祈り、また空いた時間であっても、たえず讃美歌を唱えたり、祈りに没頭して暮らしていった。また正教会の聖餐式を行う際には、近隣に住む司祭か、友人の修道院長ミトロファンを招いて、彼らにそれを取り仕切ってもらった。1年が経過した頃、ミトロファンはセルギイのもとに参加して、その仲間となった。セルギイはこれを喜んだが、ほどなくしてミトロファンは亡くなってしまった。こうして、最初の弟子たちがセルギイのもとに参加して、約12年が経過したが、彼らの間にはまだ長となる者がいなかった。セルギイ自身は修道院長にも、また司祭にもなりたいと思わず、仲間たちを、権威ではなく、自分の行動だけを手本として指導していた。彼は仲間たちによく仕えて、その様子はちょうど聖書の「誰にも仕える者となりなさい」(マルコ福音書9‐35)の言葉通りであった。セルギイは仲間が増えても、自ら進んで労働に励み、彼らのために木を伐り、パンを焼いて、泉まで水を汲みにでかけたくらいである。また彼らの衣服を縫い、靴を作ったりして、彼らに奉仕し続けた。セルギイはこのように、彼らに対して、わが子を愛する父のように仕えた。愛と調和の精神が彼らのすべてを包みこみ、そんなセルギイの言葉は、彼らにとって絶対で、セルギイの存在は彼らにとって愛そのものであった。しかしセルギイは教会によって認められた司祭ではないため、洗礼の儀式や懺悔聴聞を行うことができなかった。そこでセルギイは正式な司祭の必要性を感じて、どうか司祭を送ってくださいと、熱心に神に祈り続けた。しかし弟子たちはセルギイに自分たちの長となってくれることを望んだ。セルギイは最初それを拒んだが、彼らの熱意に負けて、ついにセルギイの許可を得た彼らは、当時、府主教アレクシイの代わりを務めていた、大司教アファナーシィのもとに出かけていき、事の次第を告げると、アフィナシィーはそれを快く許可して、セルギイを司祭にして、また彼を修道院長に任命した。これは1354年のことだった。

当初セルギイの修道院では、僧はそれぞれ独立して暮らしており、各自が所有する庵で祈り、断食して、手作業や、生活の糧を得る仕事をしていた。そして教会で祈りを捧げる時だけ、彼らは全員で集まった。これは古代パレスチナやギリシャの聖アトス山での修道方法だったが、セルギイはこのような方法をよしとして、新しく弟子が来ると、自分で庵を作るよう指示した。しかしもちろん、仲間たちはそれに協力して、セルギイ自身も、彼は教父であるばかりか、よき大工としても働いたため、心からの協力を惜しまなかった。セルギイは自分に厳格で、兄弟には愛を持って接して、寝る時間も惜しんで労働にいそしみ、沈黙を愛して、怠惰な生活を戒めた。そして修道院長となってからも、以前と同じように弟子たちに接して、決して権威を振りかざしたりしなかった。また言葉よりも行動によって彼らに手本を示した。どれだけ疲れていても、セルギイは最初に教会に入る者であり、最後にそこから退出する者であった。修道院の規則では、夜の祈りが終わってからは、特別の理由がない限り、仲間と語ったりすることは禁じられていた。弟子たちを気遣うセルギイは、消灯後には、弟子たちの庵を見て回り、彼らが祈ったり、手作業をしたり、また書き物をしたり、聖書を読んでいるときには安心したが、仲間とおしゃべりしていたりすると、庵の扉を叩いて、彼らの注意を促した。また戒めを守らない者には、翌日、優しくたしなめるようにした。

そうしてしばらくの期間、修道院における弟子の数は12人にとどまり続けた。ある者が修行に耐えられずに修道院を離れたり、また亡くなったりすると、その代わりに新しい人が入ってきたのだが、結果として、弟子の全体の数は常に一定にとどまっていた。しかしその後、スモレンスクから、高位司祭の立場にあったシモンが参加すると、弟子の数は13人となった。そしてそれ以降セルギイの弟子の数は徐々に増えていくことになる。シモンは、スモレンスクの地では高い徳と厳格な生活で知られていたが、彼はそのような地位も名声も、友人や故郷も捨てて、セルギイのもとに参加したのであった。セルギイは謙虚に彼を受け入れて、それに対してシモンは莫大な喜捨を行い、それによって修道院の教会は、いまだ木造ではあったが、立派なものへと建て替えられた。その後シモンは老齢により亡くなり、セルギイによって手厚く葬儀が行われた。

それ以降、セルギイの修道院は徐々に大きくなり、かつては熊たちが徘徊して、誰ひとり住むことのなかった森の中には、今や多くの弟子が集まるようになった。当初はバラバラに建てられていた弟子たちの庵も、その後、教会を囲むように、整然と整えられていった。そして彼らの質素な庵と教会の中では、彼らの祈りの言葉がたえず響いていた。そして弟子たちはセルギイの指導の下、俗世間とは精神的に完全に縁を切って、自己の精神の浄化を目指していった。セルギイは神の祝福により、もはや悪魔を恐れず、多くの天使の協力を得て、その修道院を管理していった。多くの人が彼に示唆を求めて訪れたが、セルギイは誰をも拒むことなく、喜びと愛でもって彼らを受け入れた。それはあたかも「天なる父が私に与えてくださる者は、みな私のもとに来るであろう。そして私は彼らを決して拒むことはしないだろう」(ヨハネ福音書6‐37)という言葉の通りであった。セルギイは、新しく弟子になりたいという人がきても、すぐには認めず、まず他の弟子と共にいくつかの苦行を行うよう命じて、また修道院の規則にも慣れるのを確認してから、彼らを弟子として迎え入れた。

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