「ラドネジのセルギイ」小伝  その1

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☆ 誕生、そして青年時代 ☆

ロシア正教史上、最大の聖者とされて、いまもロシア国民に愛され、ロシア国家確立の基礎に貢献した、ラドネジのセルギイは、西暦1314(または1322年)の5月3日、現在のモスクワより北東200キロメートルの位置にある、現在の至聖三者教会ヴァルニツキー修道院からそう遠くない、ロストフの地に生まれた。父親はロストフの公国に仕えた貴族の一員で、比較的裕福な生活を送っており、名はキリール、そしてその妻はマリアと呼ばれた。セルギイの幼名はヴァルフォロメイと言い、兄弟には、3歳年上のステファノ、そして2歳年下のピョートルがいた。有名な話として伝わるのは、彼がまだ胎内にいた時に、母親が日曜日に聖餐式に出席したのだが、その時、3度にわたって、つまり聖典が朗読される前、讃美歌が歌われる前、そして司祭が説教をする前の3回、大きな声で「みんな、注意深くあろう。聖なる中の聖なるものよ!」と叫んだとされる。言い伝えでは、ヴァルフォロメイが神に選ばれた者であるという証明として、彼が幼児の頃、母親が肉を食べた時には乳を飲むのを拒否して、また乳母からの乳は決して飲まず、さらに水曜日と金曜日には乳を飲もうとしなかったとされる。(正教の規則によると、水曜日と金曜日は、肉類、乳製品、魚、油、ワインを口にしてはいけないことになっている。なぜなら水曜日はユダがイエスを裏切った日で、金曜日はイエスが十字架にかけられた日であるから。また修道僧はいかなる理由であっても、肉類は食べてはいけないことになっている)

ヴァルフォロメイが7歳になった時、両親は家庭教師を雇って彼を教育した。当時、読み書きの教育を受けれるのは、貴族や公、商人の子供などの、一部の者だけだった。ところが兄弟と異なり、ヴァルフォロメイはあまり読み書きが得意でなく、彼はそのことに悩み、読み書きに優れるようにと、神に祈り続けた。ある時、父親に命じられて迷った子牛を探していると、ヴァルフォロメイは、大きな樫の木の下で、年老いた修行僧が祈りを捧げているのを見た。その姿に感銘を受けたヴァルフォロメイは、僧のそばまで近づき、彼の祈りが終わるのを待った。ヴァルフォロメイの両親はいつも子供たちに、遊行僧や巡礼の人を家に招くよう教えていたので、ヴァルフォロメイはその僧を食事に招待しようと考えたのだが、その年老いた僧は、祈りを終えた後、ヴァルフォロメイに近づくと、十字架を切って彼を祝福したのち、名前は何といって、どこから来たのかと彼に尋ねた。ヴァルフォロメイは名前を告げると、今までの悩みを思い出して、どうか読み書きの力を与えてほしいとその老僧に頼んだ。するとその老僧は彼のために神に祈りはじめ、ヴァルフォロメイも彼と一緒になって熱心に祈った。老僧は祈りが終わると、袋から小箱を取り出し、そこから正教の聖体礼儀に使うパンを手に取り、その一部をちぎって彼に与えて「さあ、これを食べなさい。そうすると君は神の恩寵によって、読み書きに優れて、聖典をよく理解し、人々に教えることができるようになるだろう」と言った。ヴァルフォロメイは差し出されたパンを食べた後、老僧に、一緒に食事をしてほしいと招待した。その後、老僧はヴァルフォロメイと一緒に、子牛を探し出して、彼の館へと連れ帰った。ヴァルフォロメイと一緒にやってきた老僧を見ると、彼の両親は喜び、老僧を家の中へと招き入れて、3人で食卓に座った。しかし老僧は、食事の前に聖書の箴言を朗読するよう、ヴァルフォロメイに求めたが、彼は、自分にはできないとしり込みした。しかし老僧は「神さまは君に読み書きの力を与えられたのだよ」と言って励ましたため、ヴァルフォロメイは聖書を手に取って読みだしたところ、すらすらと読むことができて、それを見た両親は非常に喜んだ。食事が終わると、老僧は両親に、ヴァルフォロメイが主の祝福を受けたことを伝えて「あなたたちの息子は、その人生と徳の高さによって、人々と神の御前にて、偉大な人物となるでしょう」と予言した。老僧が暇を告げたため、送り出そうとして両親が外に出ると、老僧は突然に姿を消してしまった。それを見て驚いた両親は、その老僧は神に遣わされた天使だと確信した。その後、老僧の約束通り、ヴァルフォロメイは聖書の詩編などを苦もなく読み、それらの意味をよく理解して、人々にも説明することができた。やがて彼の能力は、神の祝福により、兄弟や友人たちを凌駕するようになった。それ以降、ヴァルフォロメイは、神に献身して毎日を送るようになり、教会には必ず参加して、聖人伝や聖典などをよく読み、1日中を祈りと断食ですごすこともあった。そうするうちにヴァルフォロメイは、自分の人生のすべてを神への奉仕に捧げたいと願うようになった。

セルギイが生まれた当時のロシアの状況であるが、13世紀中ごろ、チンギス・ハーンの一族は、ロシア(当時はルーシと呼ばれた)を侵略して、ドナウ川より東の広大な大地を略奪し、そこに、分家であるキプチャク・ハン国を建設して、そこからロシアを支配していた。このように、ロシアがモンゴル人(タタール人とも呼ばれた)に支配された状態を「タタールのくびき」と称して、それは16世紀初めころまで続くことになる。ロシアは当時、モンゴル帝国の属国となっており、ロシアの諸侯は自分たちの立場を認めてもらうために、定期的にオルダー(当時ロシアを支配したキプチャク・ハン国のことで、首都は今のヴォルゴ・グラードの辺りにあった)を訪れる必要があった。しかし代々のハン(キプチャク・ハン国の王)は気まぐれで、野蛮、かつ残酷なことで知られており、それゆえ彼らは生きて帰れる保証が全くなく、出かける時には遺書を書いて出かけたほどであった。彼らは、キリストへの信仰とロシアへの愛のため、しばしば自らの生命を犠牲にした。タタールは税収者を送って、ロシアの民から税を徴収し、さらにはタタールの一般の商人までもが、ロシアの領土を略取していた。彼らは正教会を冒涜して、人々を奴隷状態に貶め、時には平気で殺したりした。当時のロシアはまだ統一を得ておらず、無法地帯といえる状態であったため、そのような中で、国民は疑心暗鬼に陥り、互いを欺きあって生きていた。しかしそのような間に、イワン・カリタ(のちにセルギイに師事したドミトリイ大公の、祖父にあたる人物)の治めるモスクワ公国が、徐々に力を持つようになった。彼は時の府主教ピョートル(府主教とは、当時のロシア正教における最高責任者で、その上の立場にコンスタンティノープルの総主教がいることになる。当時はロシア正教会としては存在せず、教会はコンスタンティノープルの管理下で活動していた)に熱心に師事したが、府主教ピョートルは亡くなる直前、イワン・カリタに「聖母マリアを祝福してモスクワの地に教会を建てるなら、モスクワは栄えて、周りの諸侯を統一し、あなたの子孫は多くの人に賛美されるようになるだろう」と予言した。モスクワ大公イワン・カリタは、その命を忠実に果たしたため、神はそれに報いてモスクワ公国を祝福し、周囲の諸公国も彼に従うようになり、その結果イワン・カリタは、ロシアをまとめた人物として知られるようになる。そしてそれ以降100年もの間、モスクワの権力に挑む者はいなくなった。

こうして無秩序状態にあったロシアの地は、徐々に改善されていき、やがてタタールの支配に反撃できる、国家としての団結心を持つようになる。しかしその過程では当然のごとく、それによって土地財産を失う人々も出てきたわけだが、そのような中にヴァルフォロメイの両親も入っていて、彼らは自分たちの領地を失った結果、モスクワの北東50キロの所にある、ラドネジという小さな村に移り住むことになった。そのころには、ヴァルフォロメイの兄弟、ステファノとピョートルはすでに結婚しており、2人はともに、当時ラドネジを治めていた、イワン・カリタの第3子アンドレイに仕えていた。しかしヴァルフォロメイは家庭生活を送ることを望まず、ひとりで信仰を深めて、神に祈る生活を続けていた。彼は修道僧として生きたいと願ったが、両親は高齢であったために、その世話をする必要があり、そんな両親はヴァルフォロメイに、自分たちが死んでからにしてほしいと頼んだ。しかし両親はその後、ヴァルフォロメイの熱意を理解して、ラドネジからそう遠くないホトコヴォの修道院に入ることになった。当時の修道院は社会的収容施設のような役割も担っており、高齢者や身寄りなき者、障害者、孤児などは、そこで共同生活を送り、工芸品などを手作業で作って、それを地域住民に販売して、それにて得た金銭で、自給自足的に生きていた。一方、兄のステファノは、その後、妻を突然に亡くしたために世をはかなみ、両親が来る数年前から、同じ修道院で聖職者として過ごすようになっていた。そして彼の子供たちは弟のピヨートルが面倒を見ていた。その後しばらくして、1334年頃に両親は亡くなってしまったため、ヴァルフォロメイは手厚く両親を埋葬した後、家督を弟のピョートルに譲ると、念願の信仰生活に没頭することになった。

☆ 至聖三者教会の始まり ☆

当時のロシア正教では、ギリシャ正教に則った修行法をとっており、それは修道院での共同生活が主体であった。一方、正教の本来のあり方は、過去のエジプトにおける隠者のように、ひとりで修行することにあった。ヴァルフォロメイはその本来のあり方を好んで、自分もひとりで修行したいと考えた。しかし森で生活する場合、熊などの野生動物に襲われる危険があったために、兄のステファノと共に修道生活を送りたいと願った。当時のステファノは、先に書いたように、妻を亡くした傷心をいやすため、ホトコヴォで修道院生活を送っていたが、彼自身は修道生活を送ることに熱意があったわけではなかった。それゆえ彼には強い信仰心で修行する勇気もなく、隠者のように暮らすことにも乗り気でなかった。しかしヴァルフォロメイの強い説得により、2人は、ホトコヴォから12キロほど離れた所に、周囲の森から盛り上がった丘を見つけると、そこを自分たちの住まいとして、それをマコヴェッツ(王冠という意味)の丘と名付けた。好都合なことに、その近くには小さな泉もあり、それゆえ2人は水には困ることがなかった。はじめは枝などで小さな庵を建てたが、後になると森の木を切って、それらで自分たちが暮らす庵と、小さな聖堂を建築した。その聖堂が完成して、それを聖化する日が来ると、ヴァルフォロメイは兄に「お兄さんは私にとって父のような存在です。だからこの聖堂にどの聖者の名前をつけるか、お兄さんが決めてください」と言った。それに対して兄のステファノは「君がまだお母さんのおなかにいた時、教会で聖餐式を行った際、大きな声で3回叫んだことがあったね。君を洗礼した司祭も、家にやってきた老いた僧も言っていたように、君が3度声を上げたということは、君は至聖三者(天の父、聖霊、イエス・キリストの三者)の弟子ということなんだ。これは神様がそのように決められたことだよ。だからこの聖堂はその至聖三者(The Holy Trinity)に捧げることにしよう」と語った。そこでヴァルフォロメイとステファノは、自分たちの作った聖堂を、府主教テオクティストに認めてもらうため、徒歩でモスクワへと向かった。府主教は喜んで彼らの申し出を聞き入れると、ひとりの聖職者と共に、聖堂の聖化に必要となる、聖別された布と殉教者の遺物を持っていかせた。こうして彼らの聖堂は至聖三者の名によって聖化されて、至聖三者大修道院の基礎が確立された。この隔離された環境の中で、ヴァルフォロメイは断食と祈りの生活に励んでいった。

ヴァルフォロメイにとって、このような生活はまことに喜ばしきもので、もはや彼にとって俗世間は存在しないかのようだった。しかし兄のステファノは俗世間への愛着を捨てがたく、また修道院での共同生活を懐かしんで、この過酷な環境には耐えれなくなり、ヴァルフォロメイの説得にもかかわらず、ほどなくして彼はモスクワのボゴヤヴレンスキィ修道院に入り、そこで修道生活を送ることになった。彼はそこでの修道生活を愛して、厳格な生活を送るようになった。その修道院には、将来の府主教となるアレクシイが、今はまだ普通の修道僧として住んでいたが、彼はステファノと意気投合して、共に並んで賛美歌を歌ったり、聖典の学修を行っていくようになる。府主教テオクティストはそんな彼らを非常に気に入り、しばしば彼らを呼んで議論を交わしたりした。時の権力者であるモスクワ大公セミョン・イヴァノヴィッチ(イワン・カリタの長子)も、ステファンとアレクシイに好意を持ち、その結果、彼の勧めによって、府主教テオクティストはステファノを叙階して司祭とし、さらにその後、この修道院の長に任命した。またセミョン・イヴァノヴィッチは、ステファノを自らの懺悔聴聞僧として求めて、その後、貴族や軍人など多くの人が彼に倣って、ステファノに信頼を寄せるようになった。一方、ヴァルフォロメイは、マコヴィッツの丘にて、厳しい自己鍛錬と修養の日々を送り、自分の精神を浄化していった。そして十分にそれが果たされたと感じた時、彼は正教会の修道僧として、自分の人生を歩みたいと願うようになった。

☆ セルギイへの改名 ☆

ヴァルフォロメイは、ラドネジの近くの修道院長である、ミトロファンという僧と、以前から親交を深めており、しばしば彼を聖堂に招いて、聖餐式を執り行ってもらった。ある時ヴァルフォロメイは、正統な正教会の修道僧となりたいという自分の願いをミトロファンに打ち明けた。ミトロファンはそれに同意すると、さっそく修道院に帰り、幾人かの僧とともに、修道僧を認める儀式に必要なものを持って、マコヴィッツにやってきた。1337年10月7日、ミトロファンはヴァルフォロメイに剪髪の儀式を行い、彼を正教会の正統な修道僧と認めた。この時、ヴァルフォロメイはセルギイという修道名を戴くが、これは剪髪の日である10月7日が、4世紀の聖人セルギウスを称える日だったからである。ミトロファンはセルギイを修道僧としてから、聖餐式、および、機密の儀式をセルギイに執り行ったが、その時、セルギイの身体は聖霊の光によって満たされ、聖堂は喜ばしき香りに包まれて、それはあたり一帯へと広がっていった。セルギイは7日間にわたって聖堂にとどまり、わずかの食料と水だけで日々をすごして、神への祈りに自らを没入させた。そして7日間の禊が終わった時、木造の質素な聖堂は、今や正式にロシア正教の教会と認められることになった。ミトロファンはいくつかの助言をセルギイに与えた後で「あなたが住む庵の場所には、やがて神の力により、素晴らしい修道院が建てられるでしょう」と告げて、自分の修道院へと帰っていった。その後セルギイはこの地でひとり熱心に修行に励んでいった。彼は子供のころから克己心が強く、それゆえこのような環境でもさまざまな肉体の催しを容易に超えていけた。彼はたえず神を思うことで精神を鍛えて、常に労働に身を費やすことで、自分の身体を強化していった。ロシアの極寒の気候の中でも不平をいうことなく、手に入る食べ物だけで満足して、それらで体を養っていった。

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