バルタダール湖

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 街の住人は大抵、真夏になるとこの湖のほとりへ避暑にやって来る。ここは街でも一番の高地にあるので、冬には気温が下がって、湖の一面が氷に覆われてしまうくらい冷え込む。しかし、春が来て氷が溶け、夏になるとそれはもう、この世と思えぬ別天地のような美しさと涼しさが湖の周りには広がるのだ。湖畔のドライブウェイは、ゆるゆると曲がりくねって湖を巡り、様々な風景の変化を旅人に楽しませてくれる。真夏の湖畔では、たくさんの人がピーチパラソルを張り、水着に着替えて日光浴をしたり、水遊びで楽しむ。真っ青な空は湖面にそのまま映し出されて、湖畔から沖のほうを見ると、遠くにはうっすらと緩やかな山並みが広がり、まるで自分は天国にいるような錯覚を覚えるのだ。 この湖はかなり沖まで遠浅になっており、子供たちにとっては、まるで大きなプールのようだ。岸辺には軽快な音楽が流れ、アイスクリーム売りやら、サイダー売りやら、呼子たちが声をあげている。
この湖畔の名物のひとつは、君も乗ったであろう、あの変わった格好をした遊覧船だ。まるで竜のような形をしている。運転する船長というのも、また変わった男である。

 昔からこの湖には伝説があった。「バッシー」とかいう(バッチーではないよ)巨大生物が住んでいる、などというものだ。湖のあちこちにたっている看板、土産物屋の壁絵などで、首が長くてひょうきんな顔をした恐竜の絵をよく見かけただろうが、この正体はこいつというわけだ。街の古老たちもこの手の話は好きなようで、夏になると好奇心旺盛な子供たちを驚かせては楽しんでいる。伝説によると、大昔に恐竜が住んでいた頃、このあたりは海だったとかで、盛り上がった大地で海の一部がせき止められて湖となったときに、取り残された恐竜が氷河期を越えて生き延びたとかいう。ネス湖のネッシーと同じような、あんな感じの恐竜であるらしい。
 噂というのはおかしなもので、元々あったお話に、語る人の想像力やら諧謔やらで、次から次へと尾ひれがついていくから手におえない。人から人へ伝わるうちに、少し大きな魚が恐竜に成長していくこともある。誰も実際見たというはっきりした証拠はないので、やれそいつは大きなビルくらいの高さだ、いや、首が二つあるらしい、または、夜中に湖畔に来て子供を食っていくらしいとか、全くいい加減なものだ。

 しかし、今から20年位前、実際「バッシー」が姿をあらわしたのだ。ことの次第はこうである。
 ある霧の深い朝に、一人の釣り人がこの湖で釣り竿を垂れていたところ、なにやら霧の向こうにぼんやりと動くものがある。おや、大きな船でも浮かんでいるのかと、眠い目をこすりながら見つめてると、霧の中から徐々にそいつは姿をあらわした。これはたまげた!どでかい恐竜が姿をあらわしたのだ。眠気も吹っ飛んで腰を抜かした男は、慌てふためいて街の交番に駆け込んできた。「バッシーが出た!!」
 以来、テレビ局やら新聞記者がひっきりなしにやって来て報道合戦が始まり、その上、生物学者が大挙して湖畔に調査に訪れて、潜水艇やら、潜水夫やら、果ては超音波探索その他もろもろ、街をあげての大騒動であった。街では「バッシー煎餅」、「バッシークッキー」、観光業者は「バッシー探索ツアー」など企画する始末。例年、暇で赤字続きだった湖畔のホテルは、それ以来、大繁盛となったようだ。
 しかし不思議なことに、または恐竜は頭がいい(?)のか、「バッシー」は、街をあげての探索にもかかわらず全く引っかかってこなかった。けれども、どういう訳か反対に、霧の深い人気のない頃を見計らって、わっと驚かすように一人や二人の人の前に姿を見せるのだ。

 さて、ここである男の登場となる。
 この男は、どうも「バッシー」の存在そのものに疑問を持っていた。(いつの時代にも夢のない人間はいるものだ)そこでかれは、ある霧の深い朝、「バッシー」が頻回に目撃されるという深い淵で釣りをして、自らを囮として「お騒がせもの」をおびき寄せることを考えついた。
眠気を我慢しながら、霧の向こうを睨みつけて小一時間ほどたった頃であろうか。バサバサバサという水を切る音と、ウオーゥウオォーゥというおどろおどろしい声とともに、彼の予想通り、どんよりとした霧の中から例の「バッシー」が姿を見せたではないか!
 しかし、彼は懐疑論者である。いわれのない恐れが木の揺れを幽霊に見せ、臆病者の耳が風の音を化け物の叫びと聞かせると信じていたので、普通の男ならびっくりして逃げるところを、笑いながら、湖に飛び込み、その化け物めがけてひたすら泳いでいったのだ!びっくりしたのは「バッシー」のほうである。今までの勢いはどこへいったやら、すたこらさっさと、あわてふためいて霧の中へ姿を消そうと必死で逃げていく始末。
 しかし「バッシー」にとっての不運は、彼は一昔前には競泳で鳴らした選手であったということだ。のろまな「バッシー」はついに追いつかれてしまう羽目になったのだ。
 捕まえてみると、なんと「バッシー」は、恐竜などではなく、木と布で作られた人工物であった!誰が動かしているのだ?中に入り込んで犯人を張りぼての中から引っ張り出したところ、それは湖のそばで、流行らないホテルを営業していた男だった。とっちめて白状させたところ、閑古鳥の泣くのに困り果てて、客集めで考え出したとのことだ。

 その後の経過はどうなったか。まあ、街の人は寛大だった。あきれてしまったが、別に法律にも触れないし、さして迷惑を受けた者もないので、誰も怒りはしなかった。では、そのイカサマ氏はどうなったかだって?ほら、その、君の乗ったあの変わった船を操縦していた船長が彼本人だ。その恐竜の作り物はどうなったかだって?君の乗った遊覧船が例の恐竜の、なれの果ての姿なのだよ。

 悪戯好きの船長は今でもほらをよく吹く。いや、「バッシー」は今でも湖のそこで眠っている、いつか湖の表に顔を見せるさ、俺がこの目で見たよ、とか、この湖の底には大きな栓があるのだ、そいつはこの湖の水がこぼれないように止めてあるのだ、間違って引っ込ぬかないように、とか、全くいい気なものである。

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