フォールウォッチング

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 この町に住む人は、何か嫌なことがあると、この滝を眺めに来る。「フォールウォッチング」と称して、一時の清涼を味わうのだ。

 あなたがこの滝を眺めに行きたいなら、町なかを流れる小川のどれでもいいから、それを頼りに歩いていけばいい。しばらく歩くと、小川の周囲はアスファルトから次第に緑へと変化していき、いくつかの小川が合流して、やがて本流とでもいうべき、いくらか大きな川に成長する。本流といっても、川の幅は、あなたが小石を思い切り投げたとしても、対岸には少し届かないくらいでしかないのだが。
 その川は、山の麓につくと、なだらかな山間をくねくねとあがっていく。その右手の山肌に、川に沿うように小さな山道が作られてあるから、そこへ向かうといい。少し汗ばむくらいの距離を歩くと、あたりはジャングルを思わせるように鬱蒼と木々がそびえ立ち、ひんやりとした空気が流れてくる。周りは真昼でも薄暗くなってくるのは、高い木々の枝に太陽光線が遮られるからだ。静かな森の中は、「キロキロキロ」、とか、「クウォウクウォウ」とか鳴く鳥の声が響き、まるで森には鳥たちしか存在しないようだ。

 そのまま暗い森の中を歩くと、やがて遠くの方で「ゴウゴウゴウ」と、水の音が響いてくる。やっと目的の場所の辿り着いたのだ。滝を流れる水が太陽に反射して眩しく光り、暗い森の中に、きらきらと反射光を投げかけている。光の指す方向に歩くと、滝に辿り着く。そこであなたは少し驚くかもしれない。何しろこの滝の高さは、かなりのものである。アフリカにある何とか言う滝が世界で一番高いといわれているが、それに匹敵するだろうか。かなりの高さから、はるかなる下の滝壷に向けて、洪水のように落下する水の勢いに飲み込まれないように気をつけないといけない。この水量の一部は地下水道に流れ込み、世界中の地下水脈につながっているという説もある。でないと、あの小川の水量に比較して滝を流れる水の量は遥かに多すぎるのだ。
 滝に近づくと、人々が滝を眺めて静かに座っている光景を見るだろう。彼らは滝を流れる水の眩い輝きと、荘厳な交響曲のように響く水の音に、うっとりとして浮世の辛さを忘れているようだ。上を見上げて、滝の流れる源を見ようとしても不可能である。何しろ、そのあたりはいまだかって晴れたことのない霧に包まれているのだから。だから誰もその水源を知らない。はるか天上の世界から降り注いでくるような錯覚に襲われる。だからこの場所は観光というよりも、町の人々の宗教的感慨を沸き起こさせる場所である。遥か遠い昔に、滝のそばの切り立った岸壁に洞窟神殿が切り開かれ、人々の礼拝の場所となっている。

 その昔、神を恐れぬような一人の男が、その水源を確かめんとして岸壁を登っていったらしい。しかし、まさに霧に触れんとしたあたりで、凍りついた崖で足元を滑らせ、滝壷に落ちてしまったが、さいわい命は取り留めることが出来た。以来、この神殿に仕え、守をしている。見えるだろ?ちょうど神殿の入り口辺りに立っている老人がそうだ。彼はいつも言うのだ。
 「水がどこから流れて来るかなどということは詮索しなくていいのだ。ただ水は流れて来る。必要なだけ。それでいいのだ。」

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