天国と極楽

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ある会員が「どうして先生はいつも地獄について語るのに、天国については説明してくれないのですか?」と質問したところ、堀田和成先生は「地獄の方がみなさんにとって身近だからです。天国に行けるような人はまずいないです」と返事されました。正道では、天国とは精神界の中段を超えた世界で、魂がここに至ると、その魂の輪廻のサイクルは緩慢となります。つまりこの世に生まれてくる頻度は非常に少なくなります。しかしそれ以下の場合は、50年から60年でこの世に再生してきます。生き物はこの世での寿命と同じほどの年数をあの世で過ごすそうで、虫などは死ぬとすぐに生まれてきて、犬は5~6年で再生してくるそうです。ところが意識のレベルが中段を超えると、つまり天国に至ると、この世に生まれるのは数百年~千年に1度となり、その間はあの世で安らかに修行することになります。天国には生と死、老化はなく、安定しており、そこに住んでいる人はみな心清らかで、明るく、素直で、心から神を信じており、そのような人々がともに仲良く修行していきます。そしてその世界では人間が住めないような場所、例えば非常に高い山とか険しい谷はなくて、なだらかな草原がどこまでも続いており、また夜はなくて昼だけがあり、晴れ渡った春のような日々が続くそうです。そこには心を汚すものがないため、魂は早く浄化されていき、徐々に完成へと向かっていきます。そんな平和な世界なら、自分にとっては退屈で、とても暮らせないという人がいるかもしれませんが、天国は退屈するどころか、毎日が新しい発見の連続で、少しも飽きることがないそうです。むしろこの世の方が、退屈しないというよりも、苦しみの連続であることに気づくべきで、実際には変化があるようでも、同じような苦楽を繰り返しているにすぎないのです。

天国に行くために神を信じる、または奉仕を行うというのは、本末転倒です。それはあくまで結果にすぎません。神を信じる、そして奉仕を行うというのは、人間としての当然の行為であり、報いを求めるべきものではありません。そのように期待して信仰するなら、それは果報を求めた信仰となり、自己本位の欲望にしか過ぎなくなります。あの世はこの世の連続であり、それゆえこの世で平和な自分を確立していない限り、死んでから天国というわけにはいきません。つまり心から人に尽くせる自分を、生きているうちに確立する必要があります。陰徳を積むという言葉がありますが、イエス・キリストも「天に宝を積みなさい」(マタイ福音書6‐20)と言っておられます。天に宝を積むとは、奉仕に対しての報いを求めないことです。それを求めずに奉仕することで、天に宝を積むことになります。もし奉仕が人に認められたり、その行為に対する報いを得たなら、それはプラスマイナスゼロとなって、それ以上のものは与えられず、天に宝を積むことにはなりません。またそのようにして天に宝を積むことで、人によっては天国にいけますが、その宝を費やしたなら、再びこの世に生まれてこなければいけません。だがひとたび天国の住人となると、今度その人がこの世に生まれてくる環境は、非常に良い環境となるそうです。これは経済的に恵まれるという意味ではなくて、正しい信仰に巡り合える機会のある環境ということです。

あの世では似通った魂が集まって暮らしており、それぞれの意識レベルによって階層的に分類されて生きています。それゆえその世界では学べることに限界があります。またあの世では、自分より下の世界の様子は見ることができるのですが、自分よりも上の世界は見ることができません。たとえば霊界に住んでいる魂は、幽界の様子を見ることはできますが、光明界と言われる世界は見ることができません。自分より下の世界は、自分がすでに通ってきた世界なので、それらを見てもあまり勉強になりません。向上の指針を得るためには、自分より上の世界を見る必要があります。けれどもそれは以上の理由により不可能なので、この場合、そのような高級霊と交流するには、そのような方が下の世界へ降りてくるしかありません。

あの世で神理を学ぶには天国に行かないと無理だそうです。まだそこまで至っていない魂が学ぶためには、再びこの世に生まれてくるしかありません。この世は多くのことが学べるため、神々であってもこの世に生まれたいと願うそうです。この世に生まれてくることで、神理を説く人に出会って、その人から学ぶことが可能となります。この世は玉石混交で、さまざまな人が同じ地上で暮らすため、多くのことが学べるのです。そのように喜ばしいこの世ですが、その反面、この世は相対界の人々で占められているため、荒い物質波動が渦巻いており、それゆえ常に落ちる危険性があります。お釈迦様は、すべては空だと言われましたが、あの言葉はある意味正しくて、本当にこの世は幻のようなもので、いつ何が起こるかわからず、それゆえあの世こそが本当の実在の世界といえるでしょう。苦楽のあるこの世は、本当は苦しい世界なのです。苦しいことが楽しいというのはやせ我慢にすぎません。誰であっても自分の愛する人と別れるのは悲しいことでしょう。偉大な魂にとってこの世は地獄のような世界で、それゆえあまり生まれたくないそうです。だが人々を救済するという役割のため、しかたなくも神の命によって生まれてくることになります。けれども我々のようにこの世に郷愁を持つ者は、そのような物質への愛着ゆえに、再びこの世に生まれてくるようになるとのことです。心にそれら愛着があるかぎり、それが誘因となってこの世に生まれてくることになります。

キリスト教では、イエス様に従った12人の弟子がおり、お釈迦様には10大弟子と呼ばれる方々がいて、歴史にその名と行いが残っています。これに関して先生は次のように言っておられました。ある時、先生は何かの機会に、江戸時代に活躍した、ネズミ小僧治郎吉のお墓に行ったことがあり、その時に、何気なしに彼の意識を見たところ、彼は世間で言われているような、貧しい人を助けた義賊ではなくて、ただのコソ泥だったと知られました。それを知られた先生は、歴史の記録というものは実に不正確で、後の世の人々によって華美装飾が施されていることを理解されました。そこで先生は気になって、イエス様の12人の弟子、そしてお釈迦様の10大弟子の意識を調べたところ、驚いたことに、彼らの全員が天国に上っているかと言えば、そうではなくて、ほんの数人しか上っていないと知られました。では一般の信者はどうかと調べると、そのような無名の人々の中にも、天国に上っている人がいたそうです。我々は地位とか名声に惑わされて、本当の人物像を見失いがちですが、このことは何も一般社会だけでなく、信仰の世界においても言えることです。信仰は地位や名誉とは全く関係がありません。信仰をしながらそのようなものに心を動かすなら、その人は人生を全うすることができなくなります。

さて、そのように素晴らしい世界ですが、仏教で説明されるその世界は極楽と呼ばれて、キリスト教では天国と呼ばれています。その両者は同じものかと言えば、実は同じものでなくて、堀田和成先生によるなら、極楽はお釈迦様、そして天国はイエス様が管理されているそうです。つまりそれぞれの神の代理者が管理する世界があって、それぞれの系列の魂がそこで暮らしているとのことです。そういえば、極楽というと、穏やかで、明るく、平安が支配する世界といった印象があり、また天国というと、非常に澄み切った、清らかな世界、といった印象を受けます。堀田和成先生が管理する世界もあるそうですが、そこでは金剛(ダイヤモンド)のような魂を持った方々が住んでいるのでしょうか? 一度行ってみたいものです。