宗教指導者としての堀田和成先生

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宗教の指導者(グル)、つまり教祖と言われる人は、普通の人にはつとまりません。自分から進んで指導者になることはできず、自然の流れによって、または主の命によって、その役を与えられます。そのような人は自分の能力内で行動し、決して無理をせず、それゆえ間違いを犯す可能性も低いでしょう。自分から何かを始めるのは、自分に何かがあるからで、それは、自己本位な思いとは言いませんが、気負いとか、夢、期待、反骨精神などがあるように思います。世間の成功者を見ても、自力でのし上がった人は、強烈な個性を持ち、それゆえ、周囲の人から嫌われたり、知らないうちに敵を作っていきます。反対に、周りから持ち上げられて成功する人は、その人望により、自然と協力者が現れて、定められた道を歩むかのように、成功するに至るようです。宗教の世界もそれと同じです。旧約聖書の中では多くの預言者が現れますが、堀田先生によると、そのほとんどは引っ込み思案で、自分から伝道するというよりも、内なる主に促されるように、伝道の人生に入っていくそうです。有名なのはモーゼの話です。モーゼが燃える柴の中から主の言葉を聞き、エジプトに奴隷として捕らわれたユダヤの民を救うよう命じられますが、自分には責任が重すぎると嫌がると、主の神は怒りだして、色々と現象を見せて、モーゼに使命を果たすようにしました。堀田和成先生も砥用で伝道するよう命じられた時、自分にはできないと言うと、「お前の命は保証しないぞ」とか「120歳まで生かすので、120歳から伝道しろ」などと言われたそうで、最後に「この祈りを祈る者には証しを与える」という約束を得た結果、その「虚心の祈り」とともに、伝道することになったとのことです。先生は、主との交流が始まるずっと以前から、トイレに座っていると、目の前に大群衆が現れて、気づくと、自然と彼らに向かって話しているという経験をされて、自分はこうして話す運命だったのだろうと言っておられました。

堀田先生は「みなさんは、私が内なる方と交流できて、うらやましいと思うかもしれません。けれどもこのような立場になると責任が重いのです。教祖というのは大変なんですよ」、「世の中にいる宗教指導者は、死んで地獄に落ちることが多いのです。自分だけの問題ならいいのですが、人の人生にかかわってくるため、間違ったことを言うと、あの世で裁かれるのです」、「私も皆さんと同じように、あの世に帰った時に審判を受けるのです」と言っておられます。そのように自分の言動に慎重であられるので、原稿を書く時や個人相談を受ける時、先生は必ずその前に主に祈られたそうです。そして祈った後で解答を得て、それからさらに、内なる主にこれでいいでしょうかと確認されるとのことです。

昔のヒンドゥー社会では、教師(グル)への奉仕は絶対でありました。弟子は教師の家に住み込んで仕え、そのお礼としてヴェーダを教えられたのです。弟子はそうして教師と共に生活することで、言葉以上のものを得ることができて、自然と精神が浄化されていったようです。このような教師と弟子の関係は、現在の学校教育とはかけ離れたものです。現代では生徒と教師は同等、もしくは生徒の方が教師よりも権力を持っています。堀田先生によると、子供たちが道徳心を失い、荒廃した生活を送るのは、教師に責任があるとのことです。教師は生徒の手本となり、生徒に愛され、尊敬されるべき存在です。そのような教師に教えられた子供は幸せです。その記憶は一生の宝物となるはずです。今では子供は大人に不信感を持ち、社会に反発しています。その根本原因は家庭にありますが、たとえ家庭が荒れていても、教師が愛情あるならば、子供の心の支えとなれます。けれども今や教師職はサラリーマンとなり、生徒と恋愛するのもファッションのようです。これでは世の中ますますおかしくなります。堀田先生は、優れた教育者として、スイスに生まれたペスタロッチという方をあげています。教師は生徒にいかに接するべきかは、この方の生き方を知れば理解できるでしょう。さらに宗教的教師(グル)となるには、弟子の心を完全に理解できなければいけません。それのみならず、弟子が悟りに至るまでの道筋を完全に知っている必要があります。自分が知らない道を人に教えることはできません。教科書のように教えることができても、正しく指導することは不可能です。また本当のグルであるなら、弟子と語る以前に、その人の名前を聞いただけで、その人のすべてを知ることが必要だ、と先生は言っておられました。それゆえグルになる資格を持つ人はまことに少ないと言えます。

一方、弟子の立場としては、その生活は宗教的教師(グル)に奉仕することにあります。けれども奉仕の前に尊敬があります。尊敬していない人に仕えることはできません。バガヴァット・ギーターに「神理の体得者に就いて学び、服従し、質問をなし、奉仕によってそれを知る、智者は汝にそれを教示しよう」(4‐34)とあります。そのようにして師に仕えて、その一挙手一投足を目に焼き付け、その生き方から教えを学んでいくようにします。これは神様に対する態度とまったく同じです。つまり生活の中で神様に喜んでもらうように食事を作る、仕事も神様に捧げるように行うというように、生活そのものを祭祀とする、つまり生活を神への奉仕として行う、これによって人間の魂は浄化されて、求めずとも知恵者になることができます。なぜなら智慧の源泉は神であるからです。そのような神の地上での現れが宗教的教師であり、その人が人間という姿を通して、弟子に知恵を授けてくれるのです。