宗教は戦争の原因となるか?

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ずいぶんと昔のことだが、さる新興宗教の方から呼び出しを受けて、色々と聞かれる羽目となった。彼が言うには、信仰を行うと現証が出るが、あなたの宗教ではどんな功徳があるのか、と。そのうちに本を持ち出して、あなたのところで書いていることは、うちの宗教で書いていることのパクリだ、それゆえ、著作権侵害で訴えることになる、と言い出す。なんだか喧嘩を売られているようで気分が悪くなり、そのあとすぐに帰らせてもらった。またある知人は別の新興宗教をしているのだが、私は自分が知らないうちに会員にさせられてしまい、毎月そちらの月刊誌が届き始めた。とりあえず読んでみるのだが、頭がかき回されるようで、混乱してしまい、電話してきっぱりとお断りした。彼が言うには、2人で会って、どちらの教義が正しいか徹底的に議論しよう、と。青春時代の哲学論議なら楽しいが、信仰について議論しても平行線をたどるだけなので、やんわりとお断りした。後で気分が悪くなるのは間違いないからだ。

よく言われる論調に、世界で戦争が終わらないのは宗教が原因である、というものがある。現在、イスラム教世界とキリスト教世界は、アラブ社会と西洋社会の対立となって、泥沼の戦いに陥っている。けれどもこれは宗教の違いが原因なのだろうか? かつて冷戦時代、ソビエトとアメリカが核戦争の一歩手前までいったが、これは宗教ではなくてイデオロギーの違いである。ではこの両者の底に共通するものは何であろうか? 堀田和成先生によるなら、現在この世に生きる者のほとんどが、相対界の意識を持つ者、ヒンドゥ教によるとラジャス(激質)の気質を持つ者である。これらの人は物事を相対的にとらえて、欲望に動かされ、物質的な思いに翻弄される傾向にある。そのような人々が互いに手を取り合って平和に暮らすことは不可能である。つまり宗教や思想の違いが戦争の原因ではなく、原因は、それらを理解する側の人間にあることになる。宗教の本質は平和である。イエス・キリストもマホメットも、自説を通すために相手を殺してもよいとは説かなかった。平和をもたらすために信仰があるはずである。その平和はまず個人の心の平和から始まり、それを基礎として、周囲の平和へつながっていくものである。いくら世界平和を唱えたとしても、その根本は人間の心から始まるのが、信仰の大原則である。それゆえ宗教を唱えながら争いをもたらす者は、無知に支配された者と言わざるを得ない。

バガヴァット・ギーターにおいては、「いかなる方法にあっても、わが道に向かっている」(4‐11)と説かれている。その趣旨は、至上主クリシュナの目から見るなら、どの宗教がよくて、どの宗教が悪い、というものはなく、それら如何なる宗教であっても、最終的には至上主につながっている。ただそのつながり方が直接的であるか、歪んでいるかの違いであり、それによって、救いに至る者、または、迷いに落ちる者、というように分かれてくる。思考のエネルギーはすべて主からきており、人はそのエネルギーの糸をたどっていくことで、主にたどり着くことになる。

誰もが自分の考えが正しいと思っている。けれどもその正しさは自分が内に保持するもので、決して他人に強要するものではない。なぜなら人はそれぞれが自身の性向と好みに従って、自ら信じる信仰を選ぶものだからだ。また信仰者同士が教義で争うほど馬鹿げたことはないだろう。それはあたかも、学者が自説を主張して、他の説を唱える者を糾弾するのと同じである。もはやそこには理性などはなく、プライドに根差した感情の爆発があるだけである。