主の神について

Moses and the Ten Commandments.Engraved by H.Martin around 1850.Now in the public domain.AdobeRGB
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堀田和成先生がよく言われる言葉に「人間は神になることはできず、神の手足になることしかできません」というものがあります。神の中の神である至上主、または主の神とは、どのような方なのでしょうか?

神様というからには、この物質世界を創った方でしょう。実際にはそれは、創造神(ブラフマー神)の仕事で、その上に至上主がおられて、それを監督、指揮されているそうです。物質世界について考えますと、もちろん、我々の身の回りのすべてがそうですが、もう少しよく考えると、太陽系が大きな範疇に入るでしょう。けれども、太陽系は銀河系の中の1つの恒星系でしかありません。実際には、銀河系の中には、我々の太陽と同じような恒星が1000億あるとされます。けれども宇宙にあるのは銀河系だけではありません。現在言われているのは、宇宙には少なくとも2兆個もの銀河が存在するとのことです。そうすると全宇宙にける恒星の数は

100,000,000,000×2,000,000,000,000=2,000,000,000,000,000,000,000,000

となります。これは驚くべき数です。これらの恒星を支配しておられるのが主の神であります。さらに言うなら、主の神は全宇宙の動きを指揮して、そこに住む無数の生物を管理し、さらにはそれら生物の身体を構成して、それら生物の魂の中にも存在されています。

ヒンドゥー教では主のことをバガヴァーンと呼びます。その意味は「すべてを持つ者」ということですが、具体的には、以下の6つを最大限に持つ者とされます。つまり、①支配権(力)、②美、③名声、④富、⑤智慧、⑥離欲(無執着)、の6つです。ここで「名声」と聞くと、何か奇異な感じを受けますが、主はすべての人間の心に刻み込まれて、誰であっても、たとえ悪魔でさえ、主の名声を否定できないということです。また離欲とは、主は以上の5つを最大限にもつものの、それらには全くの無執着であるということ、つまり自分の本質なので執着する必要がなく、それらを望む者には、その人の思いに応じて与えてくださるということです。このように見ていくと、空中に浮かぶ、物質を顕現させる、人の心を読むなど、それらわずかばかりの技を見せて、自分は神だと称するのは、精神に異常をきたした人のように思われます。また我々はそんな人を見ると驚いて、この人は神に違いないと思って崇めたりしますが、以上のように、物質界は我々の目の前にあるものだけでなく、宇宙全体が物質世界なわけですので、このような膨大な広がりを持つ宇宙と、目の前の子供だましのような奇跡?を比べるなら、それらがいかに馬鹿げたものかが理解できます。

堀田和成先生がいつも言われる言葉に「世間には神と称する人がいますが、もし本当の神なら、どうか地球をもう1つ作ってください。今、地球は人口が増えて困っているので、大きなことは言いませんので、もう1つ地球を作ってくだされば、その人は神だと言ってもいいかもしれません」があります。小手先だましのような物質化現象、または奇跡?といって人々を驚かすようなものは、悪魔であっても行うことは可能と言われます。悪魔はそのような力を持ち、我々をだますことなどいとも容易いことです。けれども彼らはそのような技を見せるものの、人間の魂を救う力は持っていません。それらの技に魅せられた人を不幸にするだけです。先生の個人的体験として、神と称する人に何人か出会ったそうですが、それらの人は全員が、病気になって救急車で運ばれたり、癌になって苦しみながら亡くなったりしたそうで、そのような事実を見た先生は、もし神様なら、全宇宙を創った人なのだから、そんな病気は自分で治せるはずなのに、どうしてだろう、と、疑問に思われ、また不快に感じられたそうです。至上主であるクリシュナ神の逸話を描く「バーガヴァタ・プラーナ」の中にも、自分を神(クリシュナ)と称する人が現れて、クリシュナによって亡ぼされる話が載っています(10‐66)。今も昔も、おかしな人はたびたび現れてくるようです。

そのように超越的な存在である神が、人格を持っているとは信じがたく、それゆえ、信仰や哲学の世界では、宇宙を支配する存在を「原理」、「空」、「光」、「意思」と表現しています。堀田先生によるなら、モーゼの前に主が現れた時も、その方は光としてしか、ご自身を現さなかったそうです。ただ実際には、それは主そのものでなく、主の命を帯びたイエス・キリストだったそうです。けれども先生によると、至上の主は、人間と同じような姿をされているとのことです。このことは聖書にも記されています。つまり旧約聖書には「神はご自分の姿に似せて人間を作った」と書かれています。人間は困った時には誰かに頼りたくなります。自分は大丈夫だ、自力で困難を乗り越える、という人も、最後の最後まで追いつめられれば、誰かにすがりたくなります。決して「光」や「原理」に頼りたいとは思いません。これは人間の本能です。人間は窮地に追い込まれれば神を呼びます。それは人間の親は神であるからで、それを我々は本能的に知っているからです。つまり神は人格を持っていると、我々は潜在的に知っていることになります。

至上の主は約5000年前、クリシュナとして地上に降誕されました。けれどもこの世に生きる間は、自分は主であるとは決して語らず、普通の人のように暮らして、主としての自分の本性は、ごく一部の人にのみ現し、その後、静かにあの世に帰っていかれました。主であってさえそうであるならば、自分自身を神である、主であると人々に語ることが、いかに馬鹿げているかが理解できます。至上主が次にこの世に生まれてくるのは、今から43万年後、カリユガの最後の時に、カルキとしてだとされます。それゆえ我々の目の前に、自分は主であるという人が現れてきても、それらはすべて偽預言者ということになります。

クリシュナが主であると知られた時、先生はその名前を公表すべきか迷ったそうです。というのは、今でさえ、自分は〇〇の生まれ変わりだ、と言って人集めをする宗教家が多くおり、それゆえ、もし主の名前を明かせば、自分はクリシュナの生まれ変わりだ、というような人がきっと出てくるに違いない、そうすればそれは主を汚すことになる、と危惧されたからです。けれども、そんなことをすればその人が罰せられるだけだ、と思いなおされて、公表に踏み切ったとのことです。ここで個人的な意見ですが、イエス・キリストも釈尊も、今でこそ世界宗教の始祖として崇められていますが、当時においては、正統派からは異端者のように見られて、信じる者の数もわずかでしかありませんでした。イエスの一番弟子ペテロでさえ、イエスが生きている間は、確かな信を持てなかったくらいです。

また、これは強調すべき点ですが、それら偉大な人々は、自分は誰それの生まれ変わりであると言って、自分に権威を持たそうとはしませんでした。当時の人々にとっては、貧民街に住む大工の息子イエスであり、釈迦族の武人ゴーダマでしかなく、人間の外見しか見れない彼らは、鼻で笑って、その言葉を理解しようとしませんでした。そのように偉大な主の化身、または主の代理者を、そうであると理解できる人と、できない人がいるのはどうしてだろう、つまり主の化身を主の化身であると理解できる知性は、いかにしてもたらされるのだろうか、という疑問を持ち、かつて先生に質問したことがあり、それに対して先生は「それはその人の過去世によるのです。過去世にどのように生きたか、神を信じて生きてきたか、そのようなことを見て、神がその人にそのような知性を授けてくれるのです」と答えてくれました。曲がりなりにもこうして今、堀田先生を信じているのも、過去世でそれなりに功徳を積んでいたのかなと思います。お互い、より良き来世のために、今を大切にして、日々生きていきましょう。