守護霊について

この記事は約4分で読めます。

人には誰しも守護霊がついていて、その人を守っているという意見があります。けれども世の中を見ると、殺人者や詐欺師など、それら人を悲しませても平気な人がいます。また次々に問題が生じて、どうしても解決できずに苦しむ人もいます。そのような人にも守護霊がついているのかという疑問がわきます。

このことに関して、堀田和成先生は次のように言われます。「盲人が盲人の手を引くことはできないように、守護霊となってこの世の人を導くには、それなりの高い意識を持った人でないと不可能です。そしてそのように意識の高い魂の数は限られており、それゆえ、誰にでも守護霊がつくことはなく、つくのは、それなりの努力をしている人に限られます」と。ヒンドゥー教の世界では、神々の数は33,000人とあり、それら神々の下に、所属する天使群がいるとのことです。つまりそれら天使の数は無数ではなく、限られていることになります。それゆえ、彼らに守護される人の数も限りがあることになります。理屈から考えても、救済の見込みのある者を指導することで、今度はそれらの人が人々を救済することになり、光の及ぶ範囲はより効率的に広まっていくはずです。光の及ばない場所にいる人は不幸です。神に見放された人、という表現がありますが、あながち間違ってはいないようです。見放されないように自己を啓発していくべきでしょう。また守護霊についてですが、それらはカルマから完全に開放された霊だけではなく、自身の向上のために、その役割を担わされる者もいるようです。ですからそれらの霊は、単にこの世の人を導くと言うのでなく、そのような奉仕行を通して、自身の魂の修行となっているようです。

先生は守護霊について「自分を無にして、相手を導くことに全身全霊を傾けている」者にしか、その役は務まらないと言われます。たしかに、もしそのような高級霊が無数にいて、人類を導いているとしたなら、この世で誰も迷う人はなく、すでに世界はユートピアになっているはずです。ユートピアは全人類のあこがれですが、この世がユートピアになることは不可能に近いと言えます。自分自身を含め、周りの人々を見ればわかりますが、怒りを持たずに、自己主張もせず、平和な心で日々を送る人は、まず皆無でしょう。そのような我々が世界平和を唱えても、それは自己欺瞞にすぎません。まず自分の心を平和にしなさいと、神様であれば言われるでしょう。そのように努力する者にのみ、神の導きがあるわけで、そうして一隅を照らす者となった時に、その人の周りは平和になっていくはずです。

このように、この世を治めるのは、この世に生きる者の役目であって、天使は間接的に関与するだけです。この世を地獄にするのも極楽にするのも、それはこの世に生きる者次第で、また当然の如く、自分を幸福にするのも堕落させるのも、本人の一存にかかっており、誰もそのことに干渉できません。そしてそのような中で神に心を向ける者を、神は救うことにされたわけです。どうして神はすべての者を助けないのかと言う問いに対しては、神はすでにその人に必要なもの、空気や太陽の熱、それらを与えている、そのような慈悲を受けて、なお苦しきことがあろうとも、ご自身に想いを向ける者を、神は救ってくださるということです。この点に関して先生は「自分の意思で離れていくような者を、人間であっても、無理に引き止めようとはしないでしょう。神様は自分に背を向けていこうとする者を救うほど、お人好しではありません」と説明されます。

霊の世界は非常に複雑怪奇で、この世に生きる人間にとって、自分に接触してくるのが良い霊なのか邪悪な霊なのか、区別は難しいそうです。また守護霊の示唆というものは、言葉というよりも、自分の考えと混じり合うように、あたかも自分の考えのように浮かんでくるもので、さらには、目の前に現れる出来事、人の語る言葉を通して、それを知ることができるようです。聖書に「求めよ、さらば与えられん」という言葉があり、迷う時に我々は解答を求めて、何も得られないと不信をいだきますが、守護霊の示唆は、心を冷静にした時に、心の中にわずかに響いてくる、暗闇の中に点滅する、かすかな光のような、そんな微細な思いのように思います。霊の世界に興味を抱いて、何か言葉を聞きたいと願うなら、よからぬ霊が寄ってくるかもしれませんので、みなさん、気を付けましょう。