師と弟子

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堀田和成先生が存命中、私自身、それほど口をきく機会はありませんでしたが、質問にはたくさん答えて頂きました。興味本位なものもありましたが、それらにも、それなりに解答を与えていただき、ありがたく思っています。会員になってある程度になると、毎月の月刊誌の内容につき、質問を提出する資格が与えられます。それらの質問票に対して、先生が答えをテープに吹き込み、それが地方の各事務所に送られて、会員が聞くことになります。先生自身は、会員から直接に質問を受けて、その場で答えることを好まれたのですが、会員が増えるにつれて、そのようなことは難しくなったため、このような形をとられたようです。発足当初の人の話によると、先生から色々な話を聞くことができて、非常に楽しかったそうです。

人間は書かれた文章を読むより、本人から直接に言葉を聞く方が理解しやすく、またそうすることで人間的なつながりや信頼が生まれて、より理解が深まっていくものです。先生も「こうして皆さんと定期的に顔をあわせることは大切で、本当は毎月でもそうしたいのですが、肉体には制限がありますので、そういうわけにもいきません」と言っておられました。この言葉から類推するに、信仰には人間的なつながりが重要な意義を持つようです。また次のようにも言っておられます。「ただ本を読むだけで理解して、それで信が育つかというと、はっきり言って難しいのです。同じ志を持つ仲間と交流することで、信仰が深まっていきます。このように言うと、世間の人は、偕和會の中にしか、正しい信仰はないのかと反論しますが、これは理屈ではなくて現実です。もしできるというなら、実行してみせてください。肉体の波動(影響)は非常に強く、一人で本を読んで信仰しても、必ず俗世間の動きに流されます」と。

至上主は神理そのものとされます。つまり神理の言葉は主の口から出ているゆえ、神理の言葉は主の現れ、または主そのものとなります。このことには重大な意味があります。神理の言葉は、主から離れて、別個のものとして存在するのではなく、人格をもった主とともにあるということです。そうすると神理を理解するには、主に接する、または主を信じるしか、真に理解することは難しいことになります。このことから言えることは、正道の本を読んでそれを理解するには、先生に接するか、または先生を信じるしか、正しく理解できないことになります。法の継承ということがよく言われますが、正しい教えが時とともに歪曲され、汚されていくのは、師から直接に聞いた人々がいなくなることが原因でしょう。つまり言葉を正しく理解できる人がいなくなるからで、それを超えるには強い信しかないようです。先生は生前、「私が説いたことも、100年つづけばいい方だろうと思っています」と言っておられました。先生の説いたことを正しく理解するには、先生を信じるしかありません。なぜならそれらは先生自身の口から語られたもので、それゆえ、先生自身の血と肉とでもいうべきであり、先生自身がそれらの言葉そのものだからです。こういうと、堀田和成先生に会ったことのない人は救いがないように聞こえますが、そうとも言えません。

ここから先は、私の個人的体験ですので、それなりにご理解ください。先生が存命中、瞑想とはいえませんが、自分を見つめることがあったのですが、そんなある時、あっ、と驚きました。自分の心を見つめている、その自分の心の中から、先生がこちらを見ているのが見えたのです。うっすらとですが、明らかにそれは先生の顔でした。またある時、ある仕事をしたのですが、それを心の中で報告した時、よくやったね、という先生の笑顔が浮かび、またその時、こちらの心を、どこまで向上したかという、探るような先生の視線を感じました。これらで思い出したのは、先生が言われる、次のような言葉でした。「人間は皆ばらばらで、別個に存在しているようだが、海の島々が海底ではひとつにつながるように、人間の魂はすべて奥ではひとつにつながっており、そこを天使たちが行き来して、人々に示唆を与え、そのもっとも奥底に主の神がおられる」、さらには「自らのうちに自分を見守る大いなる者の存在を知るようになる」という文言でした。つまり人間同士は、たとえ肉体は離れていても、心ではつながっており、その心を通して、内側からの神の導きがあるということです。

このようなつながりは、生死とは関係がないようです。というのは、次のようなことも経験したからです。先生が亡くなられてから、つまらないことですが、心を悩ませることがあり、悶々としていたところ、突然に、先生の顔とともに「そんなつまらないこと、気にするな、気にするな」という言葉が心に響いてきました。人間は、どんな理屈よりも、信頼できる人の言葉一つで、勇気が湧き、悩みを克服できるものです。その言葉を受けたあと、あっという間に心は晴れやかとなり、また、先生がいつも言っておられた「私は肉体がない方がよりよく活動できるのです」、「私はずっと生きてますよ」という言葉を思い出しました。

師と弟子との関係は、信がある時には、肉体的距離を超えてしまい、さらには生死をも超越すると、このような体験から理解できます。信仰を持つことで、師と弟子は一本の糸でつながれ、それはこの世の生死に影響されません。それゆえ、たとえ堀田和成先生に生前お会いしたことがなくても、その言葉に触れて信を得たならば、先生の示唆が与えられて、確かな信仰に確立された一生を送ることができると、これは私の個人的体験からくる確信であります。