信仰のきっかけ

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私が正道を勉強しようと思った理由、というか、実際には、偕和會に入会した動機は、非常に不純なものです。つまりこの世的な安定を求めて、です。本当の信仰は、この世的な幸福を超えたものですが、かといって、神様は、この世を否定してはいません。「大地は主の御足」と言う言葉があるように、この世もまた神様の作った世界なので、人間がこの世でも物質的に幸福になることを、神様は望んでおられます。しかし人間は、幸福になろうと思ってもなれない原因を、自分が持っていることに気づかないでいます。それに気づくにはどうすればよいか?「朱に染まれば赤くなる」という言葉のように、信仰にて心と行いを正そうとする、同じ志を持つ人と交わることで、それら、今まで当然と思っていた自分の思いと行いに気づき、自然と内面の変革がなされて、結果的にそれが、この世的な幸福につながることになります。それゆえ先生は「別に偕和會の会員でなくても、神を心から信じているなら、その人は神から守られます」と言われます。しかしさらに続けて「けれども、今の世の中、一人で信仰しようとしても、俗世間の風は激しく、肉体の波動は強いので、どうしても流されてしまいます。ですから大変ですよ」とも言われます。また先生は「偕和會は、神と個人の絆を強める、一つの媒体にすぎない」と、つねづね言っておられました。ご自身がいくつかの宗教団体を体験して、現代社会における、それら宗教団体というものの弊害を目の当たりにしたため、このような感慨を持つに至ったものと思います。

信仰に入る動機は、みんなが不幸から逃れたい、幸福になりたい、というものでしょう。けれども、この世の幸不幸は、原因に対する結果であり、それゆえ原因を変えない限り、一時的には免れても、また不幸になるということになります。それゆえ、原因に立ち戻って自らを変えることが、幸福への第一歩であり、さらにその奥に存在する大原因に自らを帰入させれば、もはや不幸の原因を作ることがない。このことを、先生は「原因の原因に帰る」といっておられます。原因の原因、大原因とは何か、それこそが神であり、その神の意向に自分の心と行為を変えていくことが、本当の幸せにつながります。しかし真実をいうなら、この世の幸不幸は、本当は幻のようなもので、その奥にある実在とは、全生命をかけて神に仕えるという、自己の本質そのものです。そして、いかにすればそのようになれるかを教えるのが、本当の信仰といえるでしょう。そのように理解するなら、もはやそこには、特定の団体とか教義は関係なく、ただ人間の奥底にある、原初の思いが存在するだけです。

以前、別の宗教団体に入っていましたが、そこでは宗教団体というものの害悪を、たくさん経験しました。よくあるのが信仰の強制です。信仰は強制するものではなく、されるものでもありません。どんなに優れた信仰であろうとも、です。信仰は個人が幸福になり、心の平安を得るためにあります。その団体が発展したり、会員を増やしたりと、団体のために個人がいるのではありません。例えば、集会に出ないと、おい、どうして出てこない、参加しないとだめじゃないか、とか、または、もっと人を勧誘して、会員を増やせとか、ノルマのように強要する。いわゆる低次元の、その人たちだけの善悪の基準があって、そこから見て悪とするものは容認せず、そこから見て善とされるものが正しい、と言う理屈になります。各個人にはそれぞれ事情があり、理解の程度も違います。さらには、会に所属することは善であり、所属しないことは悪であるとは、誰がそんなことを決める権利があるのでしょう?信仰とは、神と個人の間にしかなく、その間に入るものは何もありません。あるとすれば、それなりの資質を持った指導者だけでしょう。そしてその指導者は全責任を負うことになるのです。その覚悟がない人には、そのように個人の心の問題に介入すべきではありません。堀田先生はよく次のように言っておられました。偕和會が大教団になるとかいうことは、私は少しも望まない。心から神を信じる人がいれば、それが一人であってもかまわない。ですから無理に勧誘するなどと言うことは、意味のないことです、と。

もうひとつは、いわゆるinner circle 、つまり一部の特権階級の存在です。教祖に近い人たちはなんともいえない、選ばれた者というエリート意識を持っていました。これはあくまで物理的な近さです。教祖は(教祖という呼び方はおかしいでしょう。すべての教えの根源は神であるので、教祖は唯一、神だけのはずですから)神の言葉の代弁者です。神様ではありません。自分を神と称する人は精神に異常を来した人以外にいません。では神はどこにおられるか? 神はまさしく、各個人の心の奥底におられます。物理的にも、その人に最も近しい存在でしょう。実際には、精神的な近さですが。宗教に名を借りて威張る人は最低です。神様は、遠くに見える山のようです。遠くから見ると小さく見えても、そばに近づくにつれて、山はますます高く見えて、見上げるほどになっていきます。同じように、神様の近くにいけばいくほど、自分はいかに小さい存在で、神はいかに偉大であるかを知るようになります。ですから、威張る気持ちなど消えていくものです。宗教を語りながら威張る人は、本当は何も知らない人です。

神様は人を悲しませたりしません。不幸にもしません。信じないからといって責めたりもしません。人間が不幸になるのは、この世には、善には善、悪には悪という、厳然とした掟が存在するからです。そのような掟が存在するのは、この宇宙の秩序が維持されるためです。すなわちこれは神の慈悲です。そうするなら、自らの不幸の原因はどこにあるかが理解できます。中には、不幸の原因がわからないと、訴える者もいるでしょう。しかし、人間の歴史は非常に古いのです。誰もが自分は善人と思っています。けれども、前世で人を殺したことがないとは、誰にもいえないでしょう。自分の前世は誰にもわからないからです。神は、人間を愛しておられる。それゆえ、その魂が地獄に落ちても、また、虫けらに生まれ変わったとしても、いつかは再生してくるのを待っている。さらには、天使を地獄の底にまで派遣して、救済に当たらせられる。決してその魂を消滅させてしまわない。なぜか? それは、人間と神は、別々に存在するようだが、本当は一つであるからです。この不可思議なる事実は「不変異」という言葉で表現されます。人間の体は神が造ったものだが、その魂は神から分かれた分身です。自分の身体を傷つける者などいないように、神は自らの一部である人間を、決して滅ぼしたりされない。また分身であるがゆえ、人間は神の性質を本質的に持っている。ただその善なる性質が、長きにわたる罪深き生活で不明になっているだけです。魂を覆うその罪の層を消していき、本来の自分に立ち返ることが、人間の悟りであり、自己実現ともいわれて、そしてその道筋を示すのが、太古の昔より伝わる、神の教えということになります。つまり、正しい教えとは、人間が考え出したり、構築するものではなく、すでに存在するもので、それは良心という形で、人間の魂に刻み込まれており、人間はただそれを発見するにすぎず、そしてそれは誰の所有物でもありえないのです。それを発見した者が覚者と言われ、また聖者、救世主と呼ばれる方々なのです。このことを知られるがゆえに、それら悟られた方々は、自分を神と自称することなどなく、あくまで一個人にすぎないと、謙虚に人々に接せられるのです。