性愛について

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だいぶ前のことですが、友人たちがこのような会話をしていました。つまり恋愛とセックスの関係ですが、遊び人のような人が言うには「結局それは恋愛の最終局面みたいなもので、そこがゴールのようなものかな」と。それを聞いた、少しシャイな感じの人は「ゴールというより、途中経過としてあるように思うけど」と返事をしていました。そのようなこととは無縁であった私は、そういうものかな、という感じで聞いていたのですが、今の年齢になって思うことは、その両者はほとんど無関係ではないかということです。

ある人が堀田和成先生に「性は聖となるでしょうか」と質問した時、先生は「性はどこまでいっても聖にはならない」と答えられました。性愛は人間誕生のシステムとして、当然の営みと見なされていますが、先生によるなら、はるか太古の時代であるクリタ・ユガにおいては、人間は意思の力でのみ、この世に生まれてきたそうです。しかし人間が堕落するにつれ、性交という行為を通してしか、この世に生まれることができなくなりました。けれどもそのような状況においても、その時代に生きる優れた人々は、神の許しを得てから行為を行ったそうです。人間の本質は本来、肉体の束縛から自由であるという、このような事実を実証するため、イエス・キリストは処女マリアから、男女の営みを通さずに、この世に生まれてきたそうです。イエス・キリストの誕生については異論もありますが、事実はそうであったとのことです。

性愛の思いは動物的衝動の美化した表現でしかありません。ほんとうに相手を愛するなら、それは相手を尊重して、大切にすることなので、肉体的欲求にはつながらないはずです。堀田和成先生は、西洋映画で描かれているような男女の関係は、地獄の様相を現していると言われたことがあります。それらの映画の世界では、恋愛からセックスという流れが、愛情の自然の現れとして描かれており、その区別があやふやとなっています。これは見る者のみならず、作っている人間の思想を表現しているようです。

創世記において、アダムとイブが食べた禁断の木の実は、性の象徴であると言われます。それは触覚という肉体的感覚を意味し、それを自分の楽しみに使ったことが原因となって、我々の先祖は楽園を追われたわけです。つまり、神聖な精神を失い、原罪を背負った、束縛された魂になった原因は、性にあるということになります。触覚を含む五官は、本来、神への奉仕のために使うべきで、自分を喜ばすために使うべきではありません。つまり、目や耳を通して楽しむ、または舌を喜ばそうとする、そのような行為は、人間の本来の生き方ではないということになります。そうすると、いわゆる娯楽という活動は、すべて神から離れた行為となります。神の意思に従うために、それら五官を使うには、それらを、自らの内なる主に奉仕するために用いるしかありません。

堀田先生は、性的な思いを完全に持たない人は、まずいないと言われます。長きにわたる転生の中で、当然としてきたそれら行為と思いが、我々の魂をがんじがらめのように取り囲み、我々の魂の一部となっているかのようです。だが性の思いに支配されたからと言って、それを恥じることはありません。当然と見なして生きる者よりも、罪の自覚を持つ者のほうが数倍優れているはずです。先生は「主は性欲を認めている」とも言っておられます。もしそのような思いから完全に自由なら、その人はこの世に生まれてくることはなかったはずです。神様はそのような人間の現実を認めながらも、そこからいかに脱出するかを教えています。

以前、恋愛の思いは、神への信仰に似ていると考えたことがあります。対象となる人を崇めて、その人に尽くす。これはまさしく神への信仰に似ていると思いました。実際には、崇める相手は人間であって、神様ではないので、この場合、幻滅して終わることが関の山ですが。のちにバガヴァット・ギーターを知り、そこにバクティ・ヨーガが説明されて、その中では、神への態度として、恋人のように接するということが書かれてあり、自分の考えていたことは間違いではなかったと知りました。恋愛感情は宗教的心情と比較して、決して劣った感情ではありません。聖者の中の聖者、イエス・キリストでさえ、若いころ女性に好意を持たれたが、この世での自分の使命を知り、その思いを捨てられたと聞きます。先生は、もしそのような感情に全く無縁なら、その人には神の愛というものは説くことができないといわれました。けれども、そこに自分の欲望が入るなら、それは劣ったもの、汚れたものとなり、相手にとっても迷惑になるでしょう。世の中を見ていると、しばしば恋慕の思いと所有欲が混じりあい、その結果、愛とは相手の幸福を祈ることだとは、理解できなくなるようです。

先生は、性の混乱は諸悪の根源であると言われます。人間はその性質上、楽を求める傾向にあり、それゆえ社会全体が自由を主張するなら、性の自由も主張し始めて、その結果、同棲、離婚、不倫、同性婚など、それはあらゆる方向に向かっていき、まさしく現在、社会は大混乱に陥っています。そのような人々の家庭で育つ子供も、同じような人生を送る羽目となり、幸福を求めながらも、不幸な人生に終わってしまいます。男女の関係は、婚姻で縛られず、フリーでいいという人が増えてくると、いずれ神の裁きがその国に下ると、堀田和成先生は警告されます。死海の底に沈んだソドムとゴモラの逸話は、ただのおとぎ話ではなく、真実であると知るべきでしょう。