ニルビカルパ・サマディ

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人間は死ぬと数時間以内に死後硬直が始まり、それは3~4日続いたのち、ふたたび柔らかくなります。これは犯罪捜査における死亡推定時刻を判定するのに使うくらいですから、変わることのない定理のようになっています。しかしながら正道を信じる者が亡くなる時には、またはその家族が亡くなる際には、この現象は起こらなくなります。これは不思議な事実です。

まず初めにこの現象に気づかれたのは、堀田和成先生自身でした。先生のお母さんが亡くなられた時、先生は内なる主の指示により、お母さんに引導をわたす役割を果たされました。具体的には、亡くなられた時に、心が暗くならないよう、楽しかったことを思い出させて、さらに反省の機会となる言葉を語るように、内なる主から指示されたのです。肉体は死んでも魂は生きており、それゆえそのように語りかけると、魂は聞いているそうです。その後、神に祈りながら、頭から足先まで全身を軽くマッサージされました。ここで大事なのは、マッサージと言っても、体に直接に触れずに、上を軽くなぞる感じです。先生がそのようにされると、不思議なことに、老人であったお母さんの顔のしわが伸びていき、20歳以上も若返って、その後、全く体が硬直しなかったそうです。先生のお母さんは死ぬ3年ほど前に大病を患い、医者からはもうだめだと言われたものの、不思議なことに持ち直して、先生が内なる主と交流してから亡くなられたそうです。生きている間に正道の縁に触れるのとそうでないのでは大きな違いがあります。それゆえお母さんが正道の縁に触れて亡くなったことは、魂の救済の約束を得たようなものということになります。

死後に体が硬くならない現象は世界的にもあまり例がなく、インドのヨーガの実修者の間でも稀だそうです。実は私も同じようなことを経験したことがあります。あるおばあさんですが、その人は身寄りがなくて、病気で寝込んでからは、よく寂しいと言っておられました。その方の臨終に立ち会った時、私は先生の話を聞いていたので不憫に思い、心の中で「どうかこの方の心に光をお与えください」と何度か祈りました。そうすると、おばあさんは大きく息を1回吐き、そのまますーっと息を引き取りました。ところがおばあさんを病室から運ぶ時に、その体はふにゃふにゃになっており、それを見た看護婦さんたちはびっくりしていました。さらに不思議なことには、それから7日ほど経った頃、目をつむると、そのおばあさんが出てきて、嬉しそうに両手を合わせて、こちらに向けていくどもお辞儀をしていました。ああ、よかったな、おばあさんは迷わずに済んだのかな、と思いました。けれども、これは忠告ですが、あまりこのようなことはしない方がいいと思います。祈って自分の力?で人を救うなんて考えると、それは神を冒涜することになり、必ず償いをさせられます。人間は単なる媒体にすぎません。祈ることで次から次と他人を助けられるなら、こんな容易いことはありません。人のために祈ることは、自分がその人の身代わりになることです。その人の苦しみを受ける覚悟がなければ、このようなことはすべきでないと思います。けれども実際の話、祈りの本質とは、自分を滅して人の幸福を祈ることでしかないわけですが。

偕和會の会員の中でも同じようなことを体験した人は数多くいます。ある高齢夫人ですが、その息子様はカトリックの神父をされていて、その日はローマ法王に会うことになっていました。ところが会員である母親が危篤となったために、それをキャンセルして、臨終の場に立ち会うことになったのです。母親が息を引き取り、偕和會の祭司が縁者送別の言葉を述べたのち、定められたように行っていると、その方の目の前でみるみるうちに老母の顔が若返っていき、息子様は非常に驚いていたそうです。歴史あるカトリック信者の間でもこのような現象は稀だとのことです。なお臨終の場に間に合わない場合には、離れたところで祈ることでも光は届くそうです。またある会員の方は、兄弟が水死されて、その遺体を棺に入れようとしたのですが、硬直のために手足が固くなって、曲がったままなので、どうやっても入れることが出来ず、仕方なく上から蓋をしたそうです。そしてその夜、棺の前で、神言の書にある縁者送別の言葉を読み上げたところ、棺の中でバリバリと音が始まったため、死体が動いたのかと怖くなり、慌てて家に帰りました。翌日になり、恐る恐る棺の中を見てみると、遺体の死後硬直はなくなり、柔らかくなっていて、棺の中にきれいに収まっており、おまけに、両手を胸の前で合掌する姿になっていたので、非常に驚いたそうです。

ほとんどの日本人は死んだ後にお墓に行くと思っています。私の古くからの友人ですが、長らく音信の無かったところ、風のうわさで亡くなったと聞きました。その若い死に驚きましたが、それからしばらくして、なんと彼が夢の中に出てきたのです。霧の間から現れた彼を見ると、私は嬉しくなって「なんだ、お前、生きていたのか。みんなお前が死んだと言っていたぞ」と言うと、彼は何も言わずにそのまま歩いていき、石碑のような構造物の下を掘って、その中に入っていきました。おそらく彼は死後に迷界に落ちて、お墓が自分の家と思っていたのでしょう。それから10年ほど経ったある頃、今度はその友人の奥さんが夢の中に出てきました。そして「私の旦那どこ行ったか知らない?」と明るい顔で聞いてきたので、私は夢の中で出会ったことを思い出し「彼なら以前に会って、あちらの方に行ったよ」と答えると「そう、じゃあね」と朗らかに歩いていきました。確認はしていませんが、その夢の様子から、彼の奥様も亡くなったのかなと思いました。死んだ後にお墓に住むと思っていると、本当にお墓の中に住むことになります。お墓なんかに住んだら、冬は寒くて夏は暑いし、おまけに虫や蛇がやってきて、とても落ち着いて住めません。死の時が来たなら、ただ一心に神を念じることが大切です。そうすることで死後に迷わずにすみ、天使の導きを得ることができます。これは心にしっかりと銘記すべき、救いの条件となっており、先生は繰り返しこのことを言っておられます。

私の父親は何年も前に亡くなりましたが、臨終の時に同じようなことを体験しました。自分の死が近づくと、目に見えない霊が見えるようで、父親は病室に集まった家族に「お前らには何も見えないやろうけど、今この場にはたくさんの人が集まっているんやぞ」と言いました。私は病室の中を見回しましたが、特に何も見えません。けれども幻覚ではないようです。最後には息を振り絞るように吐き出し、全身の力が抜けたようになって、そのまま亡くなりました。私は病室に一人残してもらい、堀田先生から教えられたとおり、縁者送別の儀式を執り行いました。自分にもそんなことができるのか不安でしたが、しばらくすると父親の顔が笑っているように変わったので、とても驚きました。そのあと父の遺体を家に連れて帰りましたが、結局一度も死後硬直を起こさずに、きれいな顔のままでした。さらに不思議なことには、父親の下肢は病気のため、かなりむくんでいたのですが、家族の全員が見ている前で、ほんの10分ほどの間に、そのむくみがどんどんと消えていき、最後には普通の足に戻ってしまったのです。これには家族の全員が驚きました。その後で自宅に戻り、神殿の前で目をつむると、座禅を組んだ父の姿が浮かび上がってきました。その顔はにこにこと笑っており、それを見て私は、父は無事に成仏したのだろうと思いました。

死んだ後に体が硬直しない現象は、ヒンドゥー教ではニルビカルパ・サマディと呼ばれており、これは変化に従属しないという意味で、魂の平安を意味します。一方、硬直を起こす場合、これはサビカルパ・サマディと呼ばれて、変化に従属するという意味になります。けれども死後に体が硬くならなかったといって、それが天国に行った証拠というわけではないそうです。事実、堀田先生のお母さんは、死後に迷界という世界に行かれて、そこで2年間修行されたのちに、天国に行かれたそうです。けれどもこのような現象は、それを見た人々に神の実在と魂の不死性を証明して、亡くなった人に関しては心配は無用と教えていることになります。ヒンドゥー教やキリスト教の聖者の伝説では、そのように死後に体が変化しなかったという例がいくつも記録されています。けれども我々のような庶民であってもそのような奇跡が示されるというのは、これはまことにありがたいことであります。