モーゼがヘブルの民に語ったとされる「目には目を、歯には歯を」という言葉は有名ですが、これは一般には同害刑法と呼ばれて、人を傷つけたなら、それと同等の罰を与えよと教えているとされます。ある学者は、この言葉は復讐に駆られてそれ以上の害をなすことを戒めるものだと言いますが、本当はどうでしょうか? モーゼの生きた時代は、現代以上に力が支配した世界で、道徳というものは、ほぼ存在せず、人々は損得という基準でしか物事を理解できなかったようです。長きにわたり奴隷状態にあった彼らの精神は荒み切り、そのような人々に神の教えを説くには、具体的な例を示すしかなかったと言えるでしょう。エジプトから脱出した彼らは、もちろん神に選ばれた民でしたが、その実態は烏合の衆でしかなく、神を信じている人はほとんどおらず、恵みを与えてくれる神なら信じるが、苦しみを与える神はごめんだという人々が大半を占めていたわけです。
人間は、罪に対する罰があると理解することで、自分の行動を抑制できます。人間の本質は善そのものですが、その本質は実際にはカルマに覆われており、表に現れているのは、偽我という、真実でない自分でしかなく、それは非常に不確かで、自己本位に流れていくものです。はっきり言うなら、この世のほとんどの人は霊的には盲目と言ってよく、真実のことが理解できない状態です。ここで我々が知るべきことは、人間はこの世だけで終わるのではなく、あの世でも生きており、その後、再びこの世に生まれてくるという事実です。そこで「目には目を」の真意ですが、神が定めた原則として、原因と結果という因果律があり、これは鉄則となっていて、神でさえそのことに干渉できません。つまり自分のなした罪は、それを償うまで許されることはなく、またもしこの世で償わなかったなら、あの世で償いをさせられて、それはこの世以上に過酷なものとなります。しかしあの世で罪を償っても、すべてを清算することはできません。この世で作った因縁は、この世で果たさねばならないという原則があり、それゆえその人は、次にこの世に生まれてきた時に、清算の人生を送らされます。これはとても辛くて悲しい人生になるそうです。その時に自分の運命を呪い、神を呪っても、誰のせいにもできません。このような因果律を理解できれば、「目には目を」という言葉が如何なる意味を持つかが理解できます。この言葉は決して報復を勧めるものではありません。この世で作った罪はこの世で償うことで、その人は救いに至ることができるのです。モーゼの主は「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ記19‐18)と言っておられます。イエス様が生まれるずっと以前に、あなたの隣人を愛しなさいと言っておられるのです。
死刑執行の是非についてよく議論に上がります。その中には、国家が人間の罪を裁けるのか、それは国家による殺人ではないかという意見があります。これについて言うなら、もし罪人が誰によっても罰せられないなら、この世は無法状態に陥ります。そのことゆえにこの世には施政者がいて、法を執行させる権利を、神はその人に与えているのです。つまりそのように定めることで、人々を罪の誘惑から逃れさせ、また罪の償いをこの世で終えることができるのです。すべての物事をこの世という範囲だけで理解しようとしても、それは不可能です。魂の救いという面で理解すべきです。死刑の判定は現代では非常にあまく、ひとり殺したくらいでは死刑になりません。一方、太古の昔から神によって定められた、死刑に処すべき罪があるそうです。殺意を持って人を殺した者はもちろん死刑ですが、それ以外に、①他人の土地財産を奪う者、②殺そうとして武器で他人に傷害を与えた者、③他人の妻を盗む者、などがあるとのことです。これらの行為は被害者の人生を破壊するので、それに対して死刑という厳罰を定めているのです。死刑というと非常に残酷に聞こえますが、死刑によって滅ぼされるのは肉体だけです。ところが人間の本体は霊であります。霊というと、何やらもやもやして、実体がないように思いますが、実は、我々は肉体として生きているようですが、実際には霊として生きているのです。今この瞬間においても、霊と肉体は同時に存在しているのです。ここで考えるべきことは、肉体は徐々に老化して、いずれ土に返っていきます。ところが霊は不滅で、決して滅びることがありません。そうすると、滅んでいく肉体と、永遠に生きる霊とでは、どちらが実在であるかが理解できると思います。霊として生きるあの世の方が実在であって、物質界であるこの世は、あの世が投影された世界にすぎないわけです。あの世においても、我々は今と同じように生きているのです。
のちになりイエス様が生まれて、このような報復を否定し、右の頬を打たれれば左の頬を出しなさいと言われましたが、そのようなことを実行できる人は皆無でしょう。打たれれば、心のどこかに恨みのようなものが残りますが、イエス様はそれを捨てなさいと教えているわけです。学者の中には、モーゼの前に現れた神は野蛮で、次元が低いと考える人もいますが、その根底にあるのは愛でしかありません。なぜなら、以上述べたように、魂というものを考えれば、モーゼの前に現れた主の神の教えは、その人にとって最終的な幸福をもたらすからです。もし刑罰を逃れてそのまま死ぬなら、それ以上の苦しみを味わうことになります。実は、モーゼの前に主として現れたのは、堀田和成先生によると、イエス・キリストその人だったそうです。そうすると、愛を説くイエス様とは、なにか別のような印象を受けますが、イエス様は、本当は非常に厳しい方で、あの世の審判者のような存在だとのことです。ユダがイエス様を裏切ったことは有名ですが、どうして彼が裏切ったかは、昔から小説のテーマになったりして謎のままです。しかしながら本当の理由は、ユダはイエス様の教えを自己流に解釈して伝えることがよくあり、イエス様はそれを注意するために、ユダをしばしば叱ったそうです。それは彼を正しく導こうという愛だったのですが、ユダはそのことを徐々に根に持ち、それが潜在的な引き金となって、イエス様を売り渡したそうです。イエス様の心は自他一体の境地にあり、それゆえユダの裏切りを何とも思っていませんが、神の代理者を裏切ったという罪の意識は、ユダの心に残り続けて、その罪の意識が彼自身を許さないのです。そうすると、自分を裁くものは他人ではなくて、その人の神性そのものと言えるようです。