瞑想について

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知人のKさんがインドに旅行した際、ハリドワールでヨガ修行のコースを受けて、その中で瞑想禅定を行ったそうです。その時、参加者の一人は、死んだ祖母が瞑想中に出てきたと言っていたそうです。それを聞いて、なるほど、と思いました。心を神に統一するのに最も良い方法は瞑想である、と堀田和成先生はおっしゃります。しかしそれと同時に、瞑想には危険が伴うため、万人に勧めるわけにはいかない、と注意されます。瞑想の危険性とは何か? それに答える前に、ではどうして瞑想するのかと、自問自答するのがよいと思います。もし瞑想する際に、霊的能力が欲しい、霊的な体験をしたい、などの自己本位の欲望を持つと、必ず悪魔の餌食になると警告されます。先生がかつて禅定瞑想した時には、不動明王が現れて、それら悪霊から守ってくれたとのことです。先生でさえそのような霊による干渉の危険性があったということです。さらにのちには、先生は火炎の禅定というものを経験されて、知らぬうちに霊的力を求めていた自分に気づかれたくらいです。

現代に生きる我々は、お釈迦様が瞑想して悟りを開いた事実により、自分も座禅を組んで瞑想すれば悟りを得られる、何か力が得られると思っています。事実、世の中で瞑想を勧める人は、瞑想すれば運命が好転する、内なる力が開眼する、などと語って、その危険性については少しも知らないようです。そのような動機で瞑想を行うなら、つまり、少しでも心に自己本位の欲望があるなら、その思いに引き寄せられるように、動物霊や悪霊がやってきて、姿を現したり、声を聞かせたりして、自分を信じさせようとします。これは同じもの同士は引き合うという法則があるからです。我々はそのような不思議な力を見ると、これは神の力の顕現と考えますが、動物はみな超能力を持っています。それらの超能力は、人間より劣った動物が生きていけるように、神が彼らに与えたものです。我々人間がそれら動物の力にあこがれ、真似をする必要はありません。超能力の例を挙げるなら、たとえば犬ですが、犬は霊が見えるような行動をとることがあり、またナマズなどは地震を予知すると言われています。さらに渡り鳥は何千キロもの航路を迷わずに飛んでいきます。

瞑想によって精神に異常をきたす人はけっこういるようで、それらは表沙汰にならないので、人々に知られていないだけです。また私自身、守護霊の声を聴くとか、守護霊を自分に入れて語るという人に、何人か出会ったことがありますが、彼らはなるほどと思うことを語ったり、人の秘密を指摘したりするので、不思議に思ったことがあります。しかしながら、守護霊が入るのでその人は悟っているかというと、神理、道理について話し合った場合、つじつまが合わないことを言う、常識から外れた言動をとる、自分よりレベルの低い話をする、などということを知り、どうやら悟りとは関係がなさそうで、それゆえそれら霊的現象には近づくべきでないと思いました。そんな人の話を信じると大変な目に遭います。霊というだけで、それが善いかどうかは、我々にはわかりません。守護霊と言われても、我々には本当かどうか判断できないのです。何かを当てたというだけで信じるのは、理性を持つ人間のすべきことではありません。動物霊や悪霊は、そのような不可思議な力を持っています。堀田先生によると、守護霊が語る場合、それは当人の意識に語るのであって、第3者に向けて守護霊が語るということはないそうです。そのようにして自分の語ることに権威を持たせようとするのは、動物霊が用いる常套手段だそうです。

バガヴァット・ギーターによると、瞑想してよい人とよくない人がいます。つまり「まことのヨギーは、過食の者、絶食者も、過度の睡眠常習者も、睡眠不足者にも適さない。それ故、食事、休養、仕事、睡眠、覚醒に節度ある者が、苦悩を断つことができる」(6‐16~17)とあります。瞑想は自己の魂を浄化することが目的で、それ以外にありません。瞑想は人間として最大限に生きる、つまり平和な心を作るためにするものです。そうすることで平和な世界がやってきて、これが人間のこの世での目的だからです。瞑想する条件としては、以下のようなことが言われています。瞑想する時間帯としては、夜は避けるべきとされます。百鬼夜行という言葉が示唆するように、夜は悪霊が徘徊する時間帯だからです。夜に物事を考えていると、知らないうちに疑心暗鬼に陥ったり、物事を悪いほうに考えることがありますが、これは悪霊の影響を受けている可能性があります。瞑想するのは早朝、夜明け前が理想的です。ヒンドゥー教でも、夜明け前の約1時間はブラフマ・ムフールタ(ブラフマンの時間)と呼ばれて、最も神聖な時間帯とされています。この時間帯は、社会全体がまだ活動しておらず、それら荒い波動の影響を受けないので、神聖な心を獲得しやすいからです。瞑想を行う場所は一定にすべきとされます。一定の時間に、一定の場所ですることで、その場所は浄化され、聖域となります。部屋にゆとりがあるなら、一室をそれに充てるのもいいでしょう。瞑想する時に向く方角は、太陽の昇る、東を向くのがよいとされます。さらに瞑想する際の注意点として、食事、睡眠、休養が適度に守られていることがあり、それゆえ断食は避けるべきで、また過食も控えるべきです。睡眠においても、睡眠不足の状態はよくなく、惰眠をむさぼるのもダメです。仕事で疲労しているときは、休息をとることが大切です。

このように、瞑想には種々の制約があり、忙しい現代人にとっては不向きです。瞑想中は平安であっても、生活に入ると心は荒れてしまいます。さらには、先に挙げたように、瞑想は心を浄化していることが大前提で、心の中から欲望の思いを一掃していなければなりません。では雑事から逃れられない我々現代人はいかにすべきか? 心を神に統一する最も良き方法、それは祈りであると、堀田和成先生は言われます。祈りは願い事をかなえる手段、または問題解決の最終手段と考える向きがありますが、実は、祈りとは最初にすべきことだと言われます。つまり神に統一して生きることが人生の目的であり、そしてそのように神に心を統一するのは、祈りが最もよいのです。それゆえ祈りは人生の目的そのものであります。また祈りは瞑想とは異なり、日常生活をしながらでも可能です。さらに祈りは神に祈念することですので、神の保護を受けることができて、悪霊の餌食にならずに済みます。そのようにたえず祈りを実践していくなら、そのあり方は、生活の中に祈りがあるというよりは、祈りの中に生活が存在していることになります。つまり全生活行為において、たえず神に対峙して、神に礼拝を捧げながら、生きていることになります。