金銭欲について

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人間はお金が無いと生きていけません。毎日の食事も、お金が無ければ買えず、餓え死にしてしまいます。お金が無くても生きていけると豪語する人は、お金で困ったことのない人でしょう。ヨーガについて説く、パタンジャリによる聖典「ヨーガ・スートラ」においては、人間の煩悩の一つに「生命欲」が挙げられていますが、たしかに、生きていかねばならないという本能的な思いゆえ、人間は金銭に執着するように思えます。それゆえ、生命欲を放棄すれば、金銭への執着も消えそうですが、生命欲を放棄しても大丈夫なのでしょうか?

堀田和成先生の個人的な話ですが、先生は終戦後、業界紙の新聞記者として生計をたてられましたが、家族は6人もいたために、毎月、金銭的にギリギリの生活だったそうです。そして周囲が経済成長で豊かになるのを見るにつれて、自分も何か起業したいと考え、そんな時、何件かの共同事業の話が持ち上がったのですが、最後の最後になり、共同経営者が病気になったりして、どれも流れてしまったそうです。けれどもそんな中でも、不思議なことに、お金が無い時には思わぬところから入ってきたりして、なんとか生活することができたとのことです。内なる主との交流が始まり、その点について尋ねたところ、「お前の金銭は、すべてこちら側でコントロールしているんだ」と返事されたそうです。

人間が一生で稼ぐ金銭の額は、個人ごとに、すべて決められていると、先生は言っておられます。それを超えてお金を得ようとすれば、それ相応の苦悩や不幸がやってくるとのことです。先生がよく引き合いに出す仏教説話ですが、ある長者の家に、美しい姿をした功徳天(幸福をもたらす神)がやってきて、どうか泊めてくださいと頼みます。するとその男は喜んで、「どうかいつまでも我が家にいてください」と返事しました。ところが功徳天は「私には妹がいますので、彼女も一緒に泊めてください」と言い、そこに現れたのは、醜い姿をした黒闇天(不幸をもたらす神)でした。長者は驚いて、あなただけなら泊めるが、妹の方はお断りする」と言ったところ、功徳天は「私と妹はいつも一緒に行動しており、離れて暮らすわけにはいきません」と返事したため、長者はしかたなく、2人とも断ったとのことです。この逸話は、この世的な幸福と不幸は切り離すことができず、ある意味、その両者はこの世の姿である。であるのに、人間は幸福を望むが、不幸は忌み嫌う。不幸も幸福となることを理解しない。それゆえ真の幸福を得たいなら、幸福と不幸という、相対的な考えから離れるべきだ、ということを教えています。

この逸話は、キリスト教における、人間は善悪を知る木の実を食べた結果、楽園から追放された、という教えと似ています。ここでの「善悪を知る」とは、道徳的な意味での善と悪ではなく、自分にとって都合の良いものを善と見て、都合の悪いものを悪と見なす、このような分別を指しており、そして現代社会では、このような分別を持つ者が理性ある者とみなされて、自己中心主義者がはびこる結果となっています。もしこのような分別を捨てるとどうなるか? そこには、与えられた環境で、与えられたものに満足して、ただ静かに、何も求めず、自分の義務を果たすという生き方になります。つまり、生命欲を捨てるとは、天命に完全に従うことで、そうすることで、望まずとも神の保護を受けることができて、この世で生きていけるということになります。それゆえ、たとえ生命欲を捨てても、その人は神によって生かされる者となるのです。

ある講演会で堀田和成先生は「この世にはひとつの原則があり、それは、すべてのものは平均化するというものです」と言われました。その意味するところを考えると、富める者はいつまでも富むことはなく、また貧しき者も、いつまでも貧しいことはない、となりますが、さらに敷衍して考えるなら、前世で富んでいた者は、今生では貧しくなり、前世で権力を振るった者は、今生では人に仕える立場になる、と言えるでしょう。それゆえ、人から羨ましがられる立場にある人は、それに溺れることなく、謙虚に、身を慎んで生きるべきで、また辛い立場に生きる者は、ある意味、償いと考えて、自分の義務を果たしていくべきでしょう。キリスト教の世界では、収入の10分の1を神に捧げるべきとあり、また、ヴェーダの世界では、収入の半分を、人への奉仕、神への奉仕として提供することで、カルマの束縛から逃れられるとあります。これは何も権力者や宗教家を富ませるための詭弁ではなく、そのようにすることで、ある意味、自分の身が守られることになります。つまり、もし金銭を独占するなら、それらは、自身の病気や、家族の不幸を呼び込み、また、裁判沙汰、病気治療、詐欺、盗難などで、まったく無駄に使われてしまい、決して幸福にならないと言うことです。富める者で謙虚な人は少なく、信仰に目覚める人もわずかでしょう。そのような人の家族には、親のお金と考えて、放蕩に身を持ち崩し、家の財産を食い潰す者も現れて、また親が亡くなった後には、兄弟間で骨肉の争いを繰り広げるかもしれません。つまり、人への奉仕、喜捨というものは、何もないところにプラスとなるものではなく、すでにマイナスとなったところへの埋め合わせとなる、当然の行為ということです。