神は愛である

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以前、知り合いの人から相談を受けたことがありました。彼の姉は50歳を越えており、一人暮らしなのですが、精神を病まれて、最近になり、家の前にガソリンをまいたりして、行動に問題が生じてきたとのことです。それゆえ家族としては非常に心配だ、ということでした。当時はテレビのニュースなどで、精神を患った人が事件を起こすことがよく報道されており、私は、それなりの施設に入ってもらうのがベストじゃないだろうか、と言いました。彼は迷っていたので、さらに「君がお姉さんを思うのはわかるが、もし彼女が事件を起こしたりすれば大変なことになる。そうなるとお姉さんも罪を犯すことになってしまう」と言い、その時はそれで会話は終わりました。

それから数週間して、また電話がかかってきました。彼はそのあと堀田和成先生に直接相談したそうで、それによると「お姉さんと一緒に暮らせるように家を改造して、面倒を見てあげてください」とアドバイスされたとのことでした。これを聞いて、私は頭をガツンと殴られたように感じました。先生は彼のお姉さんの状態をすべて理解されているので、そのように助言されたのですが、その点を考慮しても、自分の考え方はあまりにも教条的だと知りました。理屈上は正しいかもしれないが、本当のことは、正しい、間違っている、という基準を超えたところにあると思いました。

先生は以前、「諸法無我」について語られたことがあります。「諸法無我」とは、宇宙の法則には人間的思いが入らないということですが、それに関して、そうとも言えません、という趣旨のことをも言われました。神様は、単に宇宙の法則というものではありません。法則ならば、しゃくし定規のように、善には善、悪には悪、と自分に返ってきますが、神様の本質は愛そのものなので、そこには人間的な感情が入っています。また先生は敢えて、主の神は人間に愛情を抱いていると、「愛」とは言わずに、「愛情」と言っておられます。愛だけではなく、そこには情がある。神が人格を持つというのはそういうことで、神はまことに人間的であり、それゆえ悲しむ者には同情して、救いの手を差し伸べられる。そこには人格と人格を通した、言い換えれば、血の通ったつながりがあります。思えば思われる。神を思えば、神も我々を思ってくださる。それゆえ我々も、理屈だけで動くべきではなく、愛の思いを基調として動くべきです。

先生はいつも「神様は親切なんですよ」とも言われます。神様は原則だけを示して、それに従わない者は無視する、というような方でなく、また神を信じない者は救わない、などということもありません。もし神様がそのような原則論者であるなら、人間はとうの昔に、一人も存在しなくなっているはずです。神様を信じるなら、神様はその人の罪の一部を、身代わりとなって受けてくださいます。身代わりとなって受けたその罪はどうなるのか、ということについては、はっきりとは言われませんでしたが、どうやら、神々と言われる方々が受けてくださるそうで、そのために神々は存在すると言われたことがあります。イエス・キリストが人類の罪を背負って十字架にかかったという話はあまりにも有名で、それを根拠にキリスト教は熱心に伝道されてきましたが、それに対して人々は、もし罪を贖ったなら、どうして今だにこの世には悪がはびこるのか、と言います。キリストは人類が未来に犯す罪を償ったのではなく、我々が長きにわたる転生で犯してきた罪の一部を贖われたということです。そのような問いをするほどまで、人間は無知に陥っています。自分が罪深き人生を送ってきたことを知りません。無知な人間が、神の計らいについて意見すべきではありません。我々人間がいまだに生きているという事実は、罪を許されているからで、それゆえ、人間はすべて神に借財していることになります。その借財を返すためにいかに生きるべきか、と、我々はたえず考え、そのように生きていくべきです。

また先生は、キリスト教の教会にある、十字架上のイエス・キリスト像や、壁一面に描かれる、十字架までのむち打ちのシーンなどを見ると、心が暗くなると言っておられました。先生によるなら、十字架に張り付けられた時点で、イエスの霊体はすでに肉体から分離されており、それゆえ手足を釘で打たれたり、槍で刺されたりしても、少しも痛くなかったそうです。信仰はおおらかで、明るく、冗談を言ったり、笑ったりできるものです。先生は次のように言われます。「信仰とは、明るいものです。自分は信仰を一所懸命していると言って、子供がそばで騒いでいるのを見て、うるさいな!と、どなる、それではどちらが信仰をしているのかわからないです」と。難しい顔をして信心を語るのではなく、明るく、朗らかな心で生きていくのが、本当の信仰であると思います。

自分は罪人だと、自分の罪を自覚するのは大切ですが、それにとらわれて心を暗くしないでください、と先生は言われます。自分の欠点だけを見るなら、心は暗くなり、暗い心には、暗い人生がやってきます。自分は今にしか生きていないと理解して、今の自分の心が未来の自分の運命を決めると知り、明るい心で生きていくべきでしょう。神様も、人間の欠点に対して目くじらをたてたり、威武を持って人間に君臨するということはありません。我々と同じ次元まで下りてきて、心に示唆を与えてくれます。この点について、先生はかつて、「神様はとてもきさくな方です。堅苦しくなく、接してくださいます」と言っておられました。バガヴァット・ギーター(5‐29)に「私は…万物の友である」とあります。まさしく神は我々の真の友人であり、これは先生自身がそのように体験されたので、我々にもそのように教えられているのでしょう。