偕和會と芸能人

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偕和會の会員には、おそらく今のところ、芸能人はいないと思います。以前、落語家の〇〇〇〇さんが、先生の講演会に来られていたという噂を聞きました。そのころの月刊誌の「人生と対話」コーナーで、落語家からの質問があり、仕事における将来の不安を言っておられたので、その人の質問かなと思った記憶があります。落語家は芸能人というよりも、芸術家と言った方が正しいので、ここでは当てはまらないでしょう。芸能人にもいろいろあり、総じてその生き方は正道とは正反対のようです。つまり芸能人は有名になり、人の注目を集めねば、役につけません。役につけないと生活できません。以前、吉本興業の若手芸人が、路上で木箱の上に乗り、ライブ漫才をしていました。彼らの話によると、その出演料はたったの100円だそうです。そのようにして若手にハングリー精神を叩き込んでいるのでしょう。けれどもそんな彼らも、売れてテレビに出ると、月給は1000万円にもなります。このような格差をつけることで、彼らの向上心?を鍛えているのでしょうか。なんだか売り上げ次第で給料のアップする証券マンのようです。

堀田和成先生は黒衣(くろこ)に徹することを教えています。黒衣とは歌舞伎用語で、黒い衣を着て、自分の姿を見えないようにして、役者の背後で、役者が演じやすいように働く人のことです。これを信仰に当てはめると、決して人に認められようと思わず、黙々と与えられた仕事を行い、善行を行っても人に語らないことになります。正道の目的はこの世的成功ではなくて、それは単なる結果にすぎません。結果というものは、その時代の情勢で変わります。同じ行為であっても、時代によっては成功となり、または失敗にもなります。けれども行為そのものは同じです。人に認められたいという思いは、若者なら誰でも持っています。年上の人に名前を憶えられると嬉しかった記憶は、誰にでもあるでしょう。年を経てから思い出すと、馬鹿みたいなものですが。認められようとも、また認められずとも、自分の価値は少しも変わりません。この世的成功を求めるなら、神は望むものを与えてくれるので、成功するかもしれない。けれども、成功には必ず反動が訪れて、けっしてその幸福が続くことはありません。これはこの世の摂理です。

自分を誇示したいという思いは、偽善的行為につながるかもしれません。イエス・キリストは偽善的行為を戒めて「右手で行った善行を、左の手にも教えてはいけない」(マタイ6‐4)と言っておられます。堀田先生も「いくら善行を行っても、それを人に語ったら何にもなりません」と語っておられました。偽善的行為は信仰においてもあるようで、同じくイエス・キリストは「人前で祈るのはやめなさい」(マタイ6‐5)と警告され、インドの聖者ラーマ・クリシュナも「自分が熱心に信仰していることを、周りの人が少しも気づかない、というのがいいんだよ」と言って、信仰における偽善的行為を戒めておられます。どこの国かは忘れましたが、アイドル歌手みたいにデビュー?した、若い女性宗教家がいましたが、すぐにボロが出て、潰れてしまいました。宗教家の中には、大群衆の前で「神!」と唱えることに、一種の自己陶酔を感じる人がいるようです。おそらくこれは、イエス・キリストがあのように劇的な一生を送ったことに感銘を受けて、あのような生き方が神の命に従うと思っているのだろうと思います。堀田先生によると、イエス様があのように短くも鮮烈な一生を送ったのは、その時代にそれが必要だったからで、イエス様は本来、目立つことを好まれず、非常に地味であり、優しく教えを説かれるそうです。そして旧約聖書の中にも、もっとおとなしい方として、その名が残っているそうです。

芸能人が入ってきたなら、その人が広告塔になり、信者が増えるかもしれません。けれどもそれは非常にリスキーなことです。その人が淫行などで捕まったら、それこそ大問題になります。お釈迦様の仏教集団でも、厳格な戒律があり、出家したいという人を、お釈迦様がひとりひとり審査したうえで、入門を許可したそうです。また戒律に反したなら、破門ということもあったそうです。偕和會は誰でも入会できますが、場合によっては入会を断られます。先生が存命中は、精神が病んでいる人は、入会できないことがありました。入会しても勉強できないからです。偕和會は、正道の教えを学んで、それを実践するところです。入会していれば誰でも幸福になれる、というものではありません。会員の中には、入会していれば何かあった時に堀田先生に相談できると考え、所属していた人もいました。先生が亡くなられると、もう相談できないので、辞めていった人もいます。

偕和會の「会員心得」には「会員は、その調和の理念を忘れ、会員相互に不安と動揺を与え、不調和をもたらす者は除名される。除名されても不服は言わない」とあります。堀田先生は偕和會を「調和の連帯を深める最小限の組織」、「伝道と自己を高める拠点」として創設されたのです。会としてひとつにまとまるには秩序が必要であり、それに従えないなら、一人で勉強すればいいということになります。正道を勉強するのは、会員でなくても可能ですし、それを禁止することもありません。それゆえ問題行動を起こした人は除名されることがあるようです。でも改心すれば、また入会させてもらえます。除名処分を受けることは、その人のためでもあります。話は少しずれますが、以前ある地方の人が2000万円もの喜捨をしたいと言ってきたのですが、先生は断りました。というのは、その人は高利貸しをしていて、人を泣かせてその利益を得ていたため、そのような汚れたお金は受け取れないとされたようです。もちろん会員としても認められませんでした。神様はお金の大小ではありません。汗を流して稼いだなら、わずかの喜捨であっても、喜んで受け取ってくれます。そう考えると、最近よく言われている「お金持ちは自分で働かずに、お金に働いてもらう」という、投資で生計をたてるというのも、正道とは正反対の生き方のようです。

先生が熊本の砥用で21日の行をした時、悪魔が出てきたそうです。その悪魔は先生に「欲しいものを言ってみろ、かなえてやる」と言ってきたので、先生は「伝道の拠点を与えて頂ければ、それだけで結構です」と返事すると、その悪魔は「お前は欲のない人間だな」と言って消えてしまったそうです。先生はいつも次のように言っておられます。「偕和會の会員を増やして、大教団にしたいとは少しも思っていません。第一、私の身体は一つしかありませんので、正直言うと、これ以上増えたら大変だなあと思っているのです」、「烏合の衆がいくら増えても仕方ないんです。一人であっても、真に信じる人がいればいいのです」、「みなさん頑張って、少なくとも、意識を精神界の中段まで上げてください。そういう人が一人でも増えれば、偕和會の伝道も力強いものになるでしょう」、「日本には縁のある人はもっといるのですが、みなさん現実に流されて、縁が遠くなっているのです」。自分の意識をあげることで、自分の周りが平和になります。世界の平和を祈る前に、自分の心の平和を祈りましょう、と先生は言っていました。世界平和をいくら叫んでも、心の中で人を裁いていては自己矛盾になります。天台宗を開いた伝教大師も「一隅を照らす者となりなさい」と言っています。そうすると我々は、静かな心境を保って、自らを省みながら、いかにすれば自我を捨てれるかと考え、日々を送っていくべきでしょう。そのようにして自分を光らせることで、周りも光っていき、その結果、社会の平和がもたらされるのでしょう。