自殺は大罪

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自殺を認めるような宗教は存在しません。もし認めるようなものがあれば、それは邪教と言っていいでしょう。映画やドラマでは、この世の矛盾に嘆いて命を絶った者が、天国で幸福になったとか、恋人同士が心中してあの世で結ばれる、という話がよくありますが、そのようなことは絶対にないそうです。それゆえそのような話を作って自殺を美化することは、大変な罪になります。特に若い人はまだ物事がわからないため、そのような噓の話に影響されやすく、よく考えもせずに、感情に流された行動をとりがちです。悲しい気持ちになると、悲しんでいる霊が寄ってきます。というのは、私自身が同じような体験をしたからです。

誰であっても、悲しい目に合ったり、辛いことを思い出すと、気分が沈んでいきます。人間の魂はダイヤモンドのように輝き、何によっても影響されません。けれども魂の延長線上にある心は、肉体からの印象に影響されて、悲しんだり喜んだりを繰り返します。そしてその人の未来、いや明日の運命は、その時の心によって決定されていきます。悲しむ者には悲しい明日がやってきます。それゆえ心が沈む時には直ちに心の転換を計るべきです。それが自分の幸福につながるからです。心の転換は何によってもいいと思います。体を動かして汗を流すか、良き友人と語ることもいいでしょう。正道では祈りを祈ることを勧めますが、場合によっては楽しいテレビ番組を見る方がいいようにも思います。人間は心と肉体によって構成されており、その両者は互いに影響を及ぼしあいます。ストレスが重なると肉体も不調になることは知られていますが、その反対に、肉体からの影響によっても、心を改めていくことができます。神様が人間に肉体を与えたのは理由があるからで、人間はその肉体をうまく使うことで心を向上させることができます。それゆえ肉体は神様が与えてくれた贈り物といえます。人間の魂は神から分かれたものですが、肉体は神様が作って貸し与えたものです。ですから本当はその人のものではありません。貸し与えた理由は、その肉体を用いて目的を果たせということで、その目的とは、それを用いて過去からのカルマを清算し、意識を向上させて、神の目的に協力することです。そのような理由により、肉体を自分で捨てることは人間の否定となり、必ず地獄に落とされます。それゆえどんなに悲しいことがあっても、自殺することは魂の死と言えるのです。

では自殺するとどうなるのかというと、疑いもなくその人は地獄に落ちていきます。地獄という世界はどういうところか理解しにくいですが、昔から仏教などで様々に説明され、絵画でも表現されているように、地獄にはいくつもの世界があって、下に行くほど恐ろしい世界になるそうです。というのは、人間の罪は様々で、それぞれに対応した地獄が形成されるからです。つまり地獄は人間の想念が作り出した世界と言えます。それらの世界を描いた人は、啓示を受けて描いたようで、あれをそのまま信じていいようです。自殺をして地獄に落ちると、その人はあの世でも同じようなやり方で自殺を繰り返します。しかしあの世では肉体がないため、決して死ぬことがありません。それゆえしばらくすると起き上がって、また同じように自殺をします。そのような状態が延々と続くその世界は、絶望と暗黒によって支配されています。けれども、そうして地獄で自殺の罪を清算しても、この世に生まれてくる時には、虫などの最低の生物として再生します。昆虫や海の中の生き物は、実際の様子を知ればわかりますが、互いに凄惨な殺戮を繰り返しています。彼らはいつ敵に食べられるか知れません。マハーバーラタの中にある話ですが、虫が必死になって走り回るのを見て、あるバラモンがその虫に、どうしてそのように走り回るのかと尋ねると、その虫は、いつ人間に踏まれて死ぬかわからないので、こうしてたえず逃げ回っているのです、と答えました。我々はハエを平気で叩いたり、ゴキブリを踏みつけたりしますが、彼らも魂を持っており、中には人間だった虫もいることを考えた方がいいと思います。このように自殺者には救いがありませんが、偕和會で諸霊浄化の儀式を行うと、数年でそこから救われていくそうです。普通は何百年も地獄で苦しまねばならないところを、そのように短い時間で助けられるというのは、本当にありがたいことです。

私も気分が非常に暗くなったことがあり、そんな時には、生きていることは無意味で、どこを見ても救いは存在しないように思えてきます。後でよく考えると、どうしてそう思ったのか理解できませんが、その時には確かにそのように思えてきます。自殺をする人はおそらく、そんな気持ちになった時、よく考えもせずに、衝動的にそのような行動をとるのだろうと思います。それゆえ場合によっては、すぐに寝ることが最良の方法ではないかと思います。自分のとった行動を冷静になってあとで振り返ると、自分でも理由がわからないことがありますが、そこには霊的干渉が存在しているようです。怒りに燃える時には、同じように怒りを持った霊がやってきて、その人をけしかけます。また悲しんでいる時は、悲しむ霊がその人のもとを訪れて、その人の心をますます悲しくさせます。以前、とてつもなく心が暗くなり、家の中でくすぶっていた時、ふと後ろを見ると、白い着物を着た人が、暗い顔をしてうつむいて座っていました。それを見た私は思わずあっと声を上げて、自分の思いがこの霊を呼び込んだのだと理解し、直ちにその思いを捨てました。本当に恐ろしいことです。やはり人間は明るく陽気に生きていくべきです。昔の時代は、家族が一緒になって食事を摂りましたが、最近は毎日が忙しく、さらに個人主義の風潮により、家族がそろって食事する機会は減ってきました。皆で食事をすることは大切です。職場でも、宴会を行うと和気あいあいとなって、互いの心が打ち解けてきます。食事をすることは、ただ食べ物を食べるのではなく、そこでは会話がなされて、自然と心の交流が行われます。大昔には一族の全員が大きな食卓を囲んで、ともに食事をしたものです。そのような毎日であるなら、孤立して悩みを深める人はいなかったと思います。個人主義が横行する現代は、本当に寂しい時代です。社会全体が競争の場となり、そのような中で人間は自分の身を守ろうと、個人主義に陥っていきます。けれども個人というものは本当に弱い存在です。互いに支えあう共生の時代が訪れることを願うばかりです。