以前インドのヴリンダーヴァンを訪れたことがあり、その時に不思議な体験をしたので、それについて書きます。ヴリンダーヴァンとは、クリシュナ神が幼少期をすごした土地ですが、マトゥラーの町(ここはクリシュナ神が誕生した土地)から10キロほど離れたところにあり、ここは北インドにおける一大聖地となっています。かつては今よりもっと繫栄して、優れた寺院が多くあったそうですが、中世の時代に流入したイスラム教徒により破壊され、この場所が聖典などに記されるマトゥラーだと分かったのは、近年のことだそうです。一説によるとこの町には1000を超える寺院があるそうですが、そのほとんどは小さなものです。ヒンドゥー教の各宗派の寺院も多くあり、それらの人々が次々と巡礼にやってこられます。
ヴリンダーヴァンの街を一巡して、夕暮れ近くになったので、暑さを逃れて休息をとろうと、ラーマクリシュナ・ミッションが管理する寺院を訪れました。ラーマクリシュナという聖者には以前から関心があり、信者との交流を記録した「コタムリト」を買って読んだこともあります。というのは、ある時「ラーマクリシュナという方はどのような人でしょうか」という質問に対して、堀田和成先生は「主の化身のひとりです」と答えられたため、どんな人なのだろうと興味が沸いたからです。ラーマクリシュナという人は、悟りを得るために非常な努力をした人のようで、常人にはとてもまねはできないと、先生は言っておられました。
さて、この寺院には誰でも入れるようで、私以外にもすでに数人の方が訪れていました。中に入ると、床には絨毯が敷かれて、その正面には、等身大の、ラーマクリシュナの座像がありました。部屋の四方にある壁の上部には、歴代の代表者たちの写真が飾られています。暑さと疲労のため、ラーマクリシュナの座像を眺めながら、2時間ほどをそこで過ごしていると、夕刻のキールタンのためか、寺院の人たちが楽器などを持って次々と集まってきました。そこで一礼をしたあとで寺院の外に出ました。寺院の外には、ミッションが管理する、女学生のための寄宿舎があり、彼女たちはそこから学校に通っているようです。にぎやかな声が楽しそうに響いていました。その隣には病院があって、看板を見ると、どうやら無料で患者を診察しており、基金は世界中の信者からの喜捨によるようです。無料で治療するとは何と立派なことだろうと、感心していた、その時、不思議なことが起こりました。
突然、自分の心が過去の世界にスリップしていったのです。自分の意識は、いつかはわからない、過去のインドの土地にあります。まわりの情景と、人々の活気あふれるさまが、ひしひしと感じられます。自分という意識を持ちながら、それらの動きを感じ、見ている自分が、その中にいます。しばらくすると元の自分に戻るのですが、思いを心の中のある1点に向けると、同じように、自分の意識はすーっと、その当時に戻っていくのです。そのようなことが3度ほど続きました。その様子を例えるなら、自分は部屋の中にいて、後ろにはドアがある。後ろを振り返ると、ドアがさっと開いて、さらにその奥にある部屋が見え、そこにあるドアも開いて、ということが次々と繰り返され、まるで過去が一直線のようにつながった感じです。そのように連続した時の流れの中でも、自分という意識は同じものとして、変わることなくあり、そこからそれらの変化を見ています。この時、人間は永遠に生きていると実感し、何とも言えない幸福感に満たされました。そしてその時思ったことは、このような意識こそが、生き通しの自分、永遠の生命ではなかろうか、ということでした。人間は幾度となくこの世に生まれては死んでいき、自己の浄化へ向けて進歩していくもので、それは途方もなく長い期間に及ぶのだろうと思いました。
またこのことから感じたのですが、世の中には、悟りを開いて過去世を思い出し、自分の前世は誰それであったという人がいますが、これはどうも疑わしいのではないかと思いました。今の自分自身を理解すればわかりますが、自分は、自分として自身を知覚しているのであり、決して自分は誰それであるとか、自分の名前や業績を思うことはありません。あの人は偉大だ、あの人の名前は誰それだ、というのは、周りの人、または、のちの世の人が言うのであって、本人にとっては、自分はただの自分であり、毎日が、昨日こんなことがあったな、今日はこれをして、明日はこれをしなければ、という思いの連続にすぎず、それが我々の思っていることのすべてです。
話を元に戻して、そのような不思議を体験してから、過去世を思い出すのは簡単だ、意識をこの方向に向ければいいんだ、と思ったものの、当たり前ですが、それ以降、いくらやってもそんなことはできなくなりました。ラーマクリシュナという人は、弟子に不思議な体験をさせたことがよくあるそうですが、このことは、聖者の座像の前で2時間ほどをすごした功徳であったかもしれません。