堀田和成先生と「道標」

偕和會の聖典「道標」
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道標というのは、堀田和成先生が正道の伝道をするにあたり、何か根本になるものが必要と思われて、心の中に浮かんできたものを、そのまま書かれたものですが、先生によると、5分くらいで書き上げたそうです。そしてこれを先生はカセットテープに吹き込み、「道標」のテープとして会員に提供されました。そして会員は、そのテープを一日の始めに聞いたり、集会の前に流すことで、心の統一をはかることになります。今ではCDディスクとして提供されていますが、内容は全く同じものです。その初めに流れる言葉が「私は堀田和成です」というものですが、私はこれを始めて聞いた時、少し違和感をおぼえました。当時の私はいわゆる社会反逆児で、大人にかなりの不信感をもっており、それゆえその言葉を聞いた時に、自分の名前を言うなんて、先生は自負心が強いのではないか、と思ったのです。先生は書道もよくされて、好んだ言葉を紙に書かれますが、初期に書かれた言葉に「化現」というものがあり、私はそれを見ると、先生は自分のことを言ってるのかと思い、失礼にも「これ、どういう意味なんですか?」と聞きました。先生はそれに対して少し怪訝な顔をして「神の化身がこの世にあらわれて、地上に光を与えるという意味です」と答えられました。

私もあれから年を取り、色々なことがわかるようになりました。そして今ではこれらがどういう意味を持つのかが理解できます。自分が相手を見て判断する場合、それは相手を見ているのではなく、自分自身を見ているだけです。堀田先生が伝道を始めたのは自分の意志ではなく、内なる主の指示に従ったからです。先生は完全な受け身となって、その命を受けられたのです。そしてその時に内なる主は「あなたがやるのではなく、すべて私たちがやる。だからあなたは私たちの道具になりなさい。何も心配はいらない。伝道に障害となるものはすべて取り除く」と言われて、それに対して先生が「では私は何をすればいいのですか?」と聞くと「そうだな、お前は本を書いたり、話をしていればいい」と言われたそうです。先生の行動のすべては、先生を指導している方の意思の表れで、それゆえ我々は先生の行動を見ているようでも、本当は主の意思を見ていることになります。「わたしは堀田和成です」という発言は、先生が内なる主の命に従って、あなた方を救う役割を持ったという宣言なわけです。だからこれは「私を信じて、私の言う通り行えば、あなた方は救われる。これは主が約束されたことです」という意味になります。そして「化現」とは、先生自身の事を指すというよりも、主の意思、つまり人々への愛が、化身を通して地上に広がっていくという宣言と言えるでしょう。

同じようなことはお釈迦様にも言えて、伝説では、お釈迦様は生まれるとすぐに「天上天下唯我独尊」と言ったとありますが、あれは自分のことというよりも、仏性としての自分、つまり全なるアートマン(万人に共通の自己)の至上性を言っているわけです。またヨハネ福音書でイエス・キリストが「私が道であり、真理であり、いのちである。私を通してでなければ、誰ひとり父の御許に行くことはできない」(14-₋6)と語られますが、あれは自分の役割を宣言されたわけであり、あの時代においては、あのように宣言する必要があったからです。宣言することによって、自分を信じる者は主によって救われるという事実を、人々に伝えたわけです。つまりイエス・キリストは自分の意志でこの世に生まれたのではなく、主なる父の命によって、神の代理者として地上に降誕されて、人々に主の御許に至る道を示されたのです。それゆえ最後の晩餐のあと、イエス様は煩悶されて「父よ、どうかこの杯を私から取り除いてください。しかし私の思いではなく、あなたの御心のままになさってください」(マルコ福音書14‐36)と言われたわけです。

ある例大祭の講話の中で先生は「みなさん、もうだめだ、自分は死ぬんだという時には、必ず主を念じて祈ってください。主は必ずその人を導いてくれます」と言われて、さらに「もし祈って下の世界に落ちたなら、あの堀田はインチキだ、と言って化けて出てきてもかまいませんよ(ここで会場は爆笑)。私はそれを受けますから」と言われました。先生はいつも「この伝道活動は、私が自分の意思で始めたのではなく、すべて内なる主の命によって始めたものです。だからある意味、私は操り人形のようなものです」と言っておられました。先生はしばしば、受け身になって生きるということを言われますが、それは消極的生き方という意味ではなくて、積極的に主の命を果たすということで、正道でいうところの「全託」、あるいは「絶対他力」と同じ意味になります。ここで操り人形という言葉についての但し書きですが、これは自分という存在が完全に無くなって、トランス状態に入った霊媒のようになり、手足が勝手に動くという意味ではなくて、神の召命に完全に従い、その命を自分の意思で実行するということです。実行するにはそのような主体としての意思があり、その場その場での判断が必要とされます。それら自分の行動を、いかにして主の命に合わせるようにするかという、努力が必要になってきます。何も考えずにボーっとしていることではありません。堀田和成先生は多くの書物を書かれましたが、それらはすべて先生の意思によって、ひとつひとつ文字を選びながら、幾度も書き直したりして完成させたものです。決して自動書記によって書かれたものではありません。先生がはじめの頃に後ろの霊からよく言われたのは「お前にとって私はお前の影のようなものだが、私にとっては、お前は私の影なんだ」ということです。つまり先生は自分を完全な無にして、神の手足に徹しており、それゆえその行動はすべて神の意思に基づくことになります。先生としての身体はもはや透明となり、我々は先生という存在の向こうに主を見ているのです。

道標テープには不思議なことがいろいろとあります。はじめの頃に「道標」テープを聞いていると、先生が語る言葉の間から、外国語のような、先生が語る別の言葉が聞こえていました。ヘブライ語でしょうか? 不思議なことです。また当時は中学校などでは、学級崩壊で生徒が暴れて大変だったのですが、ある教師の方は教室に入る前に主に祈って、授業の間ずっと「道標」テープを流し続けたそうです。すると不思議なことに、生徒たちはすっかりおとなしくなり、授業を聞くようになったそうです。また地縛霊のいる家で24時間「道標」テープを流すようにすると、それらの地縛霊もおとなしくなるという体験もあります。本当は祈ることでこれらがなされますが、我々はなかなか祈りに統一できず、このような方法を取ることを、先生は認めておられたようです。