堀田和成先生と講演会

堀田和成先生
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堀田和成先生が伝道を始められた当初は、先生も若かったので、小規模の講演会をたくさん開かれました。東京での本拠地は、はじめは代々木の小さなビルの一室で、そのころは月に2回、先生の講演会が開かれたそうです。その後、会員が徐々に増えるにつれて、会場の規模も大きくなり、2001年11月18日には東京国際フォーラムで3850人を集めて講演会が行われ、その演題は「迷う原因と人生」でした。一般に向けての最後の講演会は2002年3月31日、大阪国際会議場で行われましたが、その時には3630人が参加し、その演題は「なぜ心は出家、体は在家か」でした。のちになってからの先生の講演会はテープなどで記録されていますが、初期のものはほとんど記録が残っていません。けれども書き残している人がいるので、文章として今後出てくるかもしれません。講演会のテーマについては、先生は一応それを決めて話されますが、しばしば参加者の心を見て話を変えておられたようです。

講演会に参加する人は、何らかの問題を抱えて足を運ぶわけですが、先生はそのような人の心を見て、各人の問題について示唆を与えておられました。私自身の体験として、ある時、暗い心で参加したことがあり、その時、先生は私の顔を見てこう言われました。「人間の心は泉のようなものです。そしてその泉の中心からはたえず新しい水が湧いています。これが神の光であって、それによって人の心は浄化されていきます。そしてその新しい水は祈りによってもたらされます。祈ることで心は新しい水で洗われていく、つまり悲しいことやつらいこと、苦しい思い出は、神の光によって消されていきます。だからみなさん、祈ってください。祈ることは、原因の原因、すべての大原因に帰ることです。すべての大原因とは神であり、そのように神の中に私たちの心が入っていくなら、もはや結果としての不幸は生まれず、その時から新しい人生が始まっていきます。ですからつらい思い出なんか忘れてしまいましょう。そうでしょう? 時間がたてば、つらいと思ったことも、後で思い出すなら、楽しかったなあと思えるでしょう? それはそのような記憶が、神の光によって消されるからなのです」それを聞いた私は、ではどうして神に祈らねばならないんだろう、神様なら心の中をお見通しだから、すべてわかっているはずで、正しく生きていれば助けてくれるんじゃないか、と疑問に思いました。すると先生は私の顔を見て「どうして神に祈らなければいけないんだ、正しく生きていればいいんじゃないかと思うでしょうが、神様も人間と同じなんです。こちらが思うから神様も思ってくださる。こちらが神様を思わないなら、神様も思ってくれません。正しく生きていれば神様は守ってくれると考えるかもしれませんが、そのような人は、祈らなくても、心の中で神様、と思って生きてるんですよ。だから神様も助けてくれるのです。ですから祈ってください。祈ることで自分の人生も開けていくんです」と言われました。それを聞いてなるほど、神様も人間と同じように、思うから思ってくださるのか、と納得できたのでした。それと同時に、先生にはこちらの考えていることはすべてお見通しだと、少しびっくりしました。

その後も同じようなことがありました。その時は仕事について迷うことがありました。というのは、私は子供のころから創作活動が好きで、映画監督に憧れており、シナリオの学校に通ったこともあったのですが、それについて諦めきれない思いで講演会に参加したのです。その時の講演のテーマは仕事についてでした。つまり人間は心の傾向によって4種に分けられるが、それぞれの傾向に合わせた仕事があって、それは祭司、政治、商工業者、労働者の4種であり、各人が選ぶ仕事はその人の心の傾向によって自然と決められていく、という話でした。「祭司とは、たとえば、学校の先生や聖職者で、政治は政治家や軍人がそれに相当するでしょう。そして商工業者は一般の利益追求の活動をする人です」とここで先生は私の顔を見て「そして芸能関係もこの商工業に入るんですよ」と言われました。結構大きな講演会場だったのに、先生は心の中がすべて見えているようでした。さらに「そしてその人が選ぶ仕事は、その人の心の傾向によって決まっており、それに合わない仕事をしても、うまくいかないんです。例えば」と言ってまた私の顔を見て「祭司の仕事をする人が、芸能関係の仕事をしても、うまくいかないんです」と言われたので、またビックリしました。この講演会のあと、自分の気持ちも吹っ切れた感じでした。またある講演会の前日、父親と軽い口論があり、気分の悪いまま参加したのですが、先生は講演の途中で、少し笑いながら、私と父親の顔を交互に見て「怒りはすべてを破壊してしまうんです」と言われて、父親は苦虫をかみ潰したような顔をしていたので、いささか痛快な気持ちになった記憶があります。

私はどちらかというとけっこうボロボロの人生を送っていたわけですが、ある講演会で先生はそんな私の顔を見て「生きている間はいろんな苦しいことを体験すればいいんですよ。幸せはあの世に帰ってから幸せになればいいんです」と言われました。また当時、嫌いな人物がいたのですが、それについて「嫌いな人は嫌いでいいんですよ。神様も、嫌いな人を無理に好きになれなんて言いませんよ」と言われました。正道の教えの原則から言えば、人を好きだ、嫌いだというのは、本当はよくないのですが、堀田先生は私の心のレベルまで下りてきて話をしてくださったわけです。大人にとって美味しい食べ物、たとえば刺身や懐石料理は、子供にとっては味がわからず、彼らはハンバーグやカレーを好みます。神理の言葉についてもそれと同じで、対機説法と言う言葉があるように、ただ神理を語るだけでは人は救われません。各人の状況と理解度を把握して、その後、その人が救われるよう、段階的に導いていく必要があります。

言葉を発するのは人間だけで、動物は言葉を語ることができません。なぜなら言葉の発生源は神であり、そして人間だけが神に近づく資格を持つからです。それゆえ言葉の本質は光そのものといえます。先生が見ると、ひとつひとつの言葉は光の粒子で形成されており、それを語る人の口から次々と放たれていくそうです。そして心が純であればあるほど、その人が語る言葉は光のまま相手に伝わっていき、それを聞いた人は心の平安を得ることができます。また、神から出たものは神に帰るという原則があり、それゆえ言葉の核である光は相手に伝わった後、神へと帰っていきます。ところが語る人の心が良くない場合、光の粒子の周りに煤が付くようになります。その場合、言葉の核である光は、同じように聞いた人の心に入り、その後、神へと帰っていきますが、光の粒子の周りについた煤は聞いた人の心に残って、疑いや怒りを引き起こすようになります。そしてその言葉を語った人も反動を受けて、自分の心が荒れていくことになります。先生の言葉を聞くと自然と心が浄化されます。人は音楽を聴くことで気分転換をはかりますが、私は先生の言葉を聞くことで心の転換がはかれます。先生が神理について語られると、その言葉は光そのものなので、それを聞くなら言葉以上のものが理解できます。言葉はあくまで思考の媒体にすぎず、思いそのものを伝えるには不十分です。本を読むのに行間を読むとよく言われますが、先生の話を聞く時も、心をすますことで、言葉の奥に隠れた先生の思考が見えてくるようです。先生の講演を聞くために団体で東北や北海道まで行ったことがあります。当時はお金がもったいないと考えたりしましたが、今思えばそれらの日々は、平凡な毎日の中で、光を放つひと時として記録されています。人間の生きる時間は限られており、それをいかに有効に使うかが大切です。魂の栄養となることに時間をかけることが、自分の未来の運命を決めていくからです。

堀田先生が語られる時には、何人もの高級霊が後ろに来て、応援していると聞きました。先生の講演会のあと、後方のカーテンに十字架が映ることが幾度もあり、それは写真にも撮影されています。十字架が映るということは、それに関係する人が後ろにいるという証明です。初期の頃、ある講演会があったのですが、その始まらんとする時、先生が以前に所属していた団体の人が、大声をあげて演題に近づいていったため、先生はその人に向けて「あなた、そこで止まりなさい」と一喝すると、その人はぴたりと動けなくなったことがありました。堀田先生が伝道を始めた当初、それに反対する人が多くいたために、先生が心配していると、内なる主は「伝道に障害となるものはすべて取り除くから心配はいらない」と約束されたことがあり、その証明をまざまざと見せられた気がしたものです。