堀田和成先生の人柄について

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昔、先生に個人相談をしたことがありました。先生への個人相談は、後には事務所を介して行われましたが、当時は直接に先生から話を聞くことができました。何かの小さな集会の後でしたが、部屋に入ると、先生は白いジャージ姿で座っておられて、顔を見るなり「うん、相談? じゃあ、こっち、こっち」と言われて、よし、まかしときな、といった気軽な感じです。先生の本を読むと、非常に生真面目な印象を受けますが、実際に会ってみると、隣にいる普通のおじさんという感じ、または仲のいい友達といった感じです。およそ教祖らしからぬ、と言っては失礼ですが、まるで普通の人のように接してくれます。相談が一通り終わると「じゃあ、君のこと見てあげるから、君の生年月日はいつかな?」というので、答えると、先生は目を半分つむり、少し顔をしかめて、自分の額のあたりを見るようにされました。その後も、人の意識を見る時などに、先生がそのようなしぐさをするのを見ましたが、今思えば、チベット仏教の仏像に第3の目というのがありますが、その第3の目を通して見ておられたのかな、と思います。「君は本来、非常に積極的、行動的な性格だね。けれども君は焦るという面があるので、この点を直すと、君はグッと伸びるよ」と言われました。先生自身も、自分の性格はせっかちだと言っておられたので、先生と同じ性格というのはうれしいものだと思いました。

うちの妹が一時、ぐれて困ったことがあったのですが、そんなある時、夜遅く電話がかかってきました。受話器を取ると、「堀田でございますが」と、先生の声でした。そのあと親に電話を代わりましたが、先生は妹のことを心配して電話してくれたようです。けれども、どうして話してもいないのに、人の家の事情がわかるのかな、と不思議に思いました。こういうことはよくあることで、同じようなことを体験した人はたくさんおり、先生にはすべてお見通しのようです。先生自身、いつも会員の心に光を送っていると言われて、なにやってんだ、という感じで、特定の人を鼓舞されたりしたそうです。ある会員の奥さんは少し霊的な方で、色々見えたりするそうですが、その方の言うには、先生が定期的に家の中を睨むように見ていかれるとのことです。

先生がどんな所に住んでいるのか興味があり、何度か家の周りをうろついたことがあります。いわゆるストーカーです。ストーカーは見つかると警察に捕まります。ですから、本当はこんなことをしてはいけません。話を元に戻して、先生の家はそれほど大きくありませんが、庭と垣根があります。2階の屋根にはパラボラアンテナがあり、衛星放送を見ておられるのかなと思いました。いつも2階で原稿を書かれるとのことですので、あのあたりで書くのかなと思いました。先生は油絵の趣味もあられたようで、昔、家を訪れた人は、部屋の中に、ヨットの絵と、モーゼの絵があったと言っていました。玄関には、当たり前ですが、「堀田」と表札があります。近所の人は、堀田先生をどのように見ているのかなと、不思議に思いました。玄関の上には、その時、伊勢神宮のお札が貼ってあり、ビックリしました。どうして神道のお札なんか貼っているのかと思いましたが、当時、ある会員が伊勢神宮の巫女として働いており、彼女がプレゼントしたものだったようです。普通ならそんなものを貼ると誤解されると思いますが、先生は人の厚意を大切にされるので、そんなことにはこだわらなかったようです。伊勢神宮に祭られる天照大御神は、ヴィシュヌの化身と言われるので、飾ることには問題ないと思われたのかもしれません。クリシュナ自身も、あらゆる宗教は私につながっていると言っています。

そうして玄関の前を通りかかった時、突然に先生が家の中から出てこられたので、あわててお辞儀をしようとしたところ、それよりも早く先生の方が深くお辞儀をされました。通りすがりの人のように、そのまま家の前を通り越して、しばらく行ってからUターンして、再び家の前を通りかかったところ、またもや先生が家の中から出てきて、お辞儀をされたので、あわてて私もお辞儀をしました。これではどちらか先生なのか分かりません。たぶん先生は私が誰かわからなかったはずなので、おそらく誰にでもそのようにされているのだろうと思いました。そのあと、先生がイエス・キリストを見たと言うケヤキの木を眺めていると、後ろの方で先生がニコニコ笑って見ておられたようです。

堀田先生の姿で一番印象深いのは、ある講演会が始まる前に、ロビーでおられた姿です。普通は取り巻きの人を従えて歩いたりしますが、その時の先生の姿を見た時、この人は自分を無にしていると実感しました。自分から何かをするという思いを完全に捨てておられる、これが天命に従うということなのだと、その姿を見るだけで理解できました。なぜなら、その姿はまったく精妙そのもので、自我の思いが存在しなかったからです。先生自身、そのような心境に至った人について「周りから見ると透明になってしまいます」と言っておられます。先生が見たイエス・キリストの姿も、透き通るように美しく、「あのように美しい人は見たことがありません。自我を滅した人はこのように美しくなるのかと思いました」と言っておられました。

のちになり、先生はバガヴァット・ギーターを知り、カルマ・ヨーガを説かれます。カルマ・ヨーガとは、自分という思いを捨てて、完全に神の手足となって行動することです。先生自身、ギーターを知るずっと以前から、カルマ・ヨーガを実践されていたんだなと、今思えばそのように思われます。