堀田和成先生とヴェーダ

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堀田先生がご存命の頃、ある事務所の開所式があり、その際、先生が来て話をされたのですが、その中で「実は私も、かつてインドに生まれて、ヴェーダを説いていたんですよ」と言われたことがありました。それを聞いて、では、先生の前世は誰だったのかな?と思いましたが、誰もそれ以上質問しませんでした。おそらく聞いても先生は答えなかったと思います。やはり宗教を説いたそれなりの人として、先生の名前が残っているはずですが、自分は誰それであったとは、はっきりと言われませんでした。先生自身、「人間は今という瞬間に生きているのであって、過去世が誰であるとか、自分は誰かの生まれ変わりと言うのは愚かしいことです」と言っておられました。

しかしながら、先生の昔の逸話を思い出すと、そのいくつかがヴェーダの記述と一致することに驚きます。先生が内なる主と対話し始めた頃、よく入浴中に会話をされたそうですが、あるとき、その会話が長くなり、30分も続いたので、のぼせてきて、「いったん外に出て、今の続きを聞かせてください」と言ったところ、「ああ、そうしなさい」と返事があり、風呂から上がって腰を下ろして、前を隠したところ、内なる主は、「お前は水くさい男だな。なんで前をかくすのだ。この風呂場にはお前と私の2人しかいないではないか。お前の体は頭の先から足の先まで、お前は知らなくともわたしはよく知っている。遠慮はいらない。ここは私とお前の2人だけだ。前のタオルは外せ、外せ」(「機縁の友」より)と言われて、先生は思わず吹き出したそうです。しかしながらずっと後になり、このことは重大な意味を持つと気づかれました。つまり、この恥ずかしいという思い、羞恥心は、人間として当然と見られていますが、実は自意識の表れで、プライド、名誉心へとつながるものです。旧約聖書のエデンの園のエピソードで、アダムとエバが蛇にそそのかされて、禁断の木の実を食べたところ、突然に自意識に目覚めて、裸の自分が恥ずかしくなり、前を葉で覆ったとあります。つまりこのような、自分を意識する思いが一生つきまとって、自分では当然と思いながらも、重荷を背負って生きていくことになります。日々の努力、または執念を持って行うこと、これらはすべてプライドを満足させんとする行為のように思えてきます。

ところで、ヴェーダの一種である「バーガヴァタ・プラーナ」の中で、次のようなエピソードがあります。これはヒンドゥー教最高神クリシュナの逸話が中心となった神話ですが、ある時、ブリンダーヴァンの地で、若い牧女らが裸になり池で水浴びをしていると、そこに幼児のクリシュナが訪れて、彼女達が脱いで池の縁に置いていた着物を奪い、木の上に登ってしまいます。驚いた彼女たちは服を返してほしいと頼みますが、クリシュナは、「服を返してほしければ、一人ずつ、池から上がってきて、僕のところに取りに来なさい」と命じます。彼女たちは非常に恥ずかしがりながらも、素直にその命に従ったのでした(10-22)。このエピソードを読んだ一般の人は、神様のクリシュナはいたずら好きで、エッチだなと思いますが、実はこの部分は、ヒンドゥー教バクティ派の人々にとっては、非常に重大な意味を持っているそうです。つまり、人間にとっての苦悩の原因は、羞恥心、または自尊心(プライド)にあり、それを捨てることで幸福が訪れる、それゆえすべてを投げ捨てて神に従いなさいと、クリシュナはこのような形で、彼女たちに教えたそうです。

堀田和成先生はいつも「内なる方は、私にとっては非常に厳しいんです。皆さんにとってはとても優しいですが」と言われています。内なる主と会話を始めた当初、先生はその干渉にいささか嫌気がさして、その命に背いたそうで、そんな時、内なる主は「お前の命は保証しないぞ」とか、非常に厳しく言われ、ある時は急に息ができなくなり、またある時は、物を考えることも不可能となったため、このようなことから、心臓や呼吸を支配するのは神であって、思考のエネルギーも神から来ていると理解されたとのことです。そんなある時、「今からお前に現象を見せる」と言われたので、何が起こるのだろうと待っていたが、取り分けて何も起こらず、現象とは何だろうと思っていると、しばらくして急に腹痛が生じて、トイレに行ったものの、どうしても便が出なくなってしまい、困ってしまったと言われていました。その話を聞いたみんなは、そのとき大笑いしたのですが、実は私自身、後に「バーガヴァタ・プラーナ」を読んだところ、その中に同じような話があるのを知りました。昔、インドに、シャリヤーティという王様がいて、彼は家来と娘を連れて、聖仙チヤヴァナの庵の敷地内を歩いていた時、その娘は、蟻塚の中に埋もれた聖仙の目を、誤って突いてしまいます。するとその瞬間、王と家来の全員が、尿と便が出なくなってしまい、そのことに驚いた王は聖仙に謝って、自分の娘を嫁として聖仙に提供したとのことです(9-3)。「蟻塚の中に埋もれる聖仙」というのは、ヴェーダの中でよく使われる表現ですが、その意味は、修行に専念しすぎて時間の経過も気にならず、その結果、その周りに蟻が塚を作ってしまうということです。この逸話は、排便する力も神が支配しているということを意味しますが、人間の体内には5種のプラーナがあって、このうち排便に関与しているのはアパーナというプラーナで、これらのプラーナはすべて神の力の現れで、神が支配しているということです。

また、堀田和成先生が熊本県の砥用で、21日に渡って行をされた時のことですが、ある時、先生がなにげなく空を見ていると、晴天の空に霧のように小雨が降ってきました。そしてその雨を見ていると、それら雨粒が大きく映ってきて、その1粒1粒の中に、人間や動物が小さな姿で入っているのを目撃されました。つまり生き物はすべて雨の一粒とともに地上に生まれてくることを、こうして実際に目にして知られたのです。また先生が内なる主と対話を始めた当初、「悟るためにはどうすればよいですか?」と質問したところ、「見て見ない、聞いて聞かない、語って語らない」と言われたそうで、謎のようなこの言葉を理解するのに、時間を要したとのことですが、後にウパニシャッドに触れられた時、これらのことがすべてそれらの聖典の中に記述があることを知られたそうです。さらに、月刊誌「法友」の中には「法友の理念」という文面がありますが、堀田先生がマヌ法典を知って、それを読んでいたところ、その法典の中に「法友の理念」と同じ趣旨の言葉があるのを知って、大変驚いたと言っておられました。

このように見てくると、堀田先生とヴェーダ聖典群は強いつながりがあるようです。すると、先生の守護霊とされる、白髪の仙人とは、いったい誰なんでしょうかね?