堀田和成先生を信じるということ

クリシュナとアルジュナ
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堀田和成先生の語られることを理解するには、まず先生を信じることが大切ではないかと思います。キリスト教の宣教でよく使われる言葉に「信じる者は誰もみな救われる」というものがありますが、あの確約は、イエス・キリストが十字架で昇天された事実に根拠を持つとされます。つまり、イエス・キリストは全人類の罪を背負って十字架にかかったので、イエス様を信じれば救ってもらえるという理屈です。けれどもイエス様を信じるということは、その教えを素直に実行することのはずです。ただ信じただけで救われることはなく、その人が善人になることもないでしょう。けれども一般的に言うと、その人を信じることで、その語られることも理解できるようになります。そして心から信じるなら、その人に全身全霊を捧げるようになり、それは無私の心境、無我の心境へと進むようになるでしょう。それゆえ人間は何を信じるかが大切ではないかと思います。信じる対象によっては、破滅への道を歩むこともありえます。しかし何を信じるかは、信じる対象に問題があるというよりも、その人自身の問題です。つまり人は誰もが、自分の性質に合ったものを信じるからです。

信じることに関して先生がよく引き合いに出す例に、ある夫人の話があります。その方は関西に住む女性でしたが、ある機会に先生の自宅を訪ねて、先生と話をされたそうです。その時、彼女は胸にしこりがあり、それについて心配して聞くと、先生は「教えを学んで祈るなら、そのしこりは消えていきます。けれども今のような心のままでいると、今度は悪いものとなって出てきますよ」と警告されたそうです。のちのことを考えると、おそらく先生はその時、彼女の未来が見えていたようです。先生がよく言われる言葉に「人間には寿命というものがあり、それは生まれた時にあらかじめ決まっています。50歳で亡くなるとか、90歳まで生きるというのは、カルマなどによって、天命として定まっているのです。けれどもその寿命は、アコーディオンのように、伸びたり縮んだりします。それは神様が決めることで、人によっては天命よりも早く亡くなり、または信仰によって、あるいは役割があるために、長生きさせられることもあります。だからこの世で生きているということは、まだ果たすべき義務があるからだと思ってください」と言っておられました。その後、先生が言われたように、彼女の胸のしこりはきれいに消えてしまいました。けれどもご主人の話によると、彼女の心はあいかわらずこの世のことに翻弄されており、先生が警告していたように、しばらくすると、今度は癌となって現れてきました。彼女はいろいろと治療を受けたものの、うまくいかず、そんな彼女の揺らぐ心を見て、先生は大阪まで出かけていき、彼女を見舞った際に、彼女の全身に光を与えられました。そして家族に「もうこれで大丈夫です」と言われました。それ以降、彼女の心は180度変わってしまい、堀田先生に完全に帰依してしまいました。彼女は癌で苦しみながらも、病室を訪れるお医者さんや看護婦さんに正道を勧めたため、癌で苦しんでいるのに勧めるとは、正道とはいったい如何なる信仰なのかと、周りの人たちは驚いたそうです。

しかし癌という病気ゆえ、彼女は回復することなく、その後しばらくして亡くなりました。子供たちは、先生は大丈夫と言ったのにどうして死んだのかと言い、また根性のひねくれていた私も、正道を信じたのにどうして病気が治らないのかなどと疑問に思いました。当時の会員はまだ信仰についての理解が浅く、人間の救いとは何かがよくわかりませんでした。神を信じるなら癌であっても治るというわけにはいきません。そんなことはありえないです。この世の幸福を約束する教えはたくさんありますが、その約束が果たされるかというと、それは疑問です。正道の根本は神と個人にあります。その間に入るものは何もありません。教師であってもそこに介入できません。つまり自分の心は自分で変えねばならず、自分が持っている因縁は自分で解決するしかありません。病気になるにはなるだけの原因があり、それを解消することが必要です。解消せずに人生を全うするなら、あの世でそれを清算させられます。生きているうちにその原因を消化して、真っ白な心であの世に行くなら、天国へ行くことも可能となります。人間は肉体ではなく、霊そのものです。堀田先生が大丈夫と言ったのは、霊としての彼女の救いであって、肉体の救いではありません。肉体は長くもっても90年がいいところです。イエス様は多くの病人を癒しましたが、ではそれらの人がもう病気にならなかったかと言えば、そのようなことはなく、時が来れば死んでいったはずです。つまり物質的な救いは一時的なものにすぎないということです。神様を信じていれば絶対に不幸にならないということはありえません。イエス様も「愛する者には苦しみを与える」と言っておられます。生きているうちに自分が持つ罪を自分で償うことが、正道の信仰者の在り方です。ですからこの世的幸福を求めている人には、本当のことを言うと、正道は向いていないと思います。この世の人々に合わせて教えを妥協するなら、その信仰はいずれ消えてしまいます。先生の奥様はかつて「腕を切られても、体がどうなろうとも、神を信じていきましょう」と言っておられました。その女性にも、償うべきそれなりの原因があったわけで、それは祈っただけで消えることはなく、自分の命で償う必要があったのではないかと思われます。

彼女が亡くなった時、先生が彼女の意識を見ると、それは打ち上げ花火のように、するするすると天上界まで昇っていきました。そしてそんな彼女があの世で住む世界は、兜率天と呼ばれるところで、そこは正三角形の頂点、つまり解脱の世界の一歩手前の世界です。その世界で精進を続けるなら、いずれまたこの世に生まれてきて、今度は努力によって解脱の世界に行くことが約束されます。その後、彼女はご主人の夢の中に現れて「私はもう大丈夫です。こちらでは宮殿のような建物の中に住んで、そこで皆さんと共に正道を学んでいます。あなたもそちらの世界で頑張ってください」と言ったそうで、その後、彼女はご主人の守護霊として働いているとのことです。私はこの話を聞くといつもイエス・キリストがラザロを復活させた逸話を思い出します。ラザロは肉体の復活を遂げたわけですが、肉体はいつの日か滅んでいきます。魂こそが永遠であり、魂の復活、つまり本来の神我を取り戻すことが、本当の救いであろうと思います。堀田和成先生によるなら、彼女はモーゼの時代、人々がモーゼに連れられてエジプトを脱出した時、事情があって一緒に行けなかったそうです。そして今生でも同じように、彼女はみんなと一緒に学ぶことができず、早くに亡くなられたというその因縁に、私は不思議なものを感じました。それと同時に、先生のお母さんが同じように天国に行ったことを思い出し、ひょっとして先生は前世での借りを、この世で返されたのではないかと思いました(詳しくは巨人モーゼをお読みください)。

先生がよく言われる言葉に「あの当時はまだ詳しく正道を語っていなかったのに、彼女は私を信じることだけで昇天したのです。この事実をよく考えてください」があります。先生によると、先生に反対した人はたいていが落ちていくそうです。反対に、心から信じた人は救われています。これは何も、先生が自分を信じる人を祝福して、反対する人を呪うわけではなく、自然とそのようになってしまうそうです。というのは、そのような審判を下す方があの世におられて、その方が采配をふるっておられるからだそうです。ある人は先生の個人相談を受けたのですが、先生はその時、急用ができて長く彼を待たせたところ、その人は、よくも待たせたなと怒って、そのまま帰ってしまいました。ところがその後、彼はアメリカで仕事をしている時、本人は無実だったものの、麻薬所持の疑いで捕まり、一年間もアメリカの刑務所に入れられる羽目となりました。また先生が何かでお世話になったところは、小さなお店であったものが大繁盛するようになるということがよくあるそうです。インドの聖者ラーマ・クリシュナは、信者が自分に会う時に何も持ってこないと、その信者に対して「私に会う時には何か持ってこないと、良くないことが起こるよ」と言っていました。あの方は非常な修行によって自我を滅却し、物欲と自負心を完全に捨てた方ですので、これはあの人が機嫌を損ねて言っているのではありません。神我を悟った人はこの世の太陽となって、人々に光を送る存在となっているので、そのような人に敬意を払わない、ないしはその人を非難すると、その思いは自分に直接跳ね返ってきます。これは神が定めた原則であって、そこに私情が入ることはありません。自分から出たものは自分に返るという原則ゆえ、愛の思いは祝福となって自分に返り、悪意は災いとなって自分に返ってきます。旧約聖書によると、モーゼと一緒にエジプトを脱出した一団にコラという人物がいましたが、彼はシナイの荒野で徒党を組んでモーゼに反逆し、祭祀職を自分たちに渡せとその権威に挑みました。そこでモーゼが主の神に祈ったところ、彼らの足元にある地面が突然に割れて、彼らの全員が地の底に飲み込まれたとあります(民数記16)。けれども堀田先生によると、実際には、彼らはモーゼに反発して、自発的にヘブルの一団から離れていき、シナイの荒野を歩いているうちに、巨大な砂地獄のようなところに飲み込まれて、そのまま死んでしまったそうです。ちょうど映画「アラビアのロレンス」の中で少年が砂の中に飲み込まれていったのと同じような感じです。

はじめの頃に先生がよく言われたのは「みなさん、道理を学んでください。ただ信じるだけでは、それは盲信や狂信になりがちです。正道は道理に根拠を持ち、その後、神理へと進んでいきます。道理とは法則であって、それは客観性を備えた、不変的なものです。それを学ぶことで理解を深めていくなら、正しい信を培うことができます」ということでした。そのうちに言われたことは「本当のことを言うと、信じなければ理解できないのです。理解と信のどちらが先かと言えば、それは信なのです。神を信じることで神理が理解できるようになるのです」ということです。しかし晩年になって言われたことは「今まで私はこんなことを言ったことはありませんが、皆さん、私を信じてください。私はもう30年近くも内なる主の指示に従って行動してきました。だからはっきりとこう言えるんです。神様と言われても、みなさん、どこにおられるか分からないでしょう? けれども私にとっては、ここ(胸を指して)におられるんです」ということです。先生はある時に言っておられましたが、偕和會の会員であっても、心から神を信じている人は少なく、ほとんどの人は現世利益を求めて会に来ているそうです。神を信じるということは本当に難しいことです。私は神を信じます、という人に、ではあなたはどんなことが起こっても神を信じますか、と聞くと、おそらく黙ってしまう人がほとんどで、信じますという人は、あまり物事をよく考えていない人ではないかと思います。けれども神を信じることは難しいようで、本当は非常に簡単なようにも思います。素直な心になる、つまり幼児のように物事をありのままに受け入れることで、何があっても、神を信じることができるようになるのではないかと思います。自分を先にするか、それとも神を先にするか、そういう選択を迫られる時が、信仰者であるなら、誰にとっても訪れるのではないかと思われます。