滅びに至る道

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聖書には「山上の垂訓」という有名なイエスの言葉があります。皆さんは知っていると思いますが、念のためここに掲載します。

心の貧しい人たちはさいわいである 天国は彼らのものである

悲しんでいる人たちはさいわいである 彼らは慰められるであろう

柔和な人たちはさいわいである 彼らは地を受け継ぐであろう

義に飢え渇いている人たちはさいわいである 彼らは飽き足りるようになるであろう

あわれみ深い人たちはさいわいである 彼らは憐れみを受けるであろう

心の清い人たちはさいわいである 彼らは神を見るであろう

平和を作り出す人たちはさいわいである 彼らは神の子と呼ばれるであろう

義のために迫害されてきた人たちはさいわいである 天国は彼らのものである

(マタイ福音書5‐3~10)

これらの言葉から感じとれるのは、神の救いを得ることができるのは、この世において、弱き者、貧しき者、身分の低い者、虐げられた者、そのような人々であるということです。どうしてそのような者が神に愛されるかというと、人間は地位があがって、お金持ちになり、名声を得るようになると、自然とこの世を愛する思いが強くなり、その結果、今の自分の立場は自分の力で得たと考え、神を忘れてしまうからです。人間は富と神の両方に仕えることはできないと、イエス様は警告されます。また金持ちが神の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しいとも言われます。世の中にはこの世の成功を約束する宗教が多くあり、そして人々が求めるのはそのような宗教です。現代では仏教やキリスト教でさえ、あの世を否定していることがあり、人間は死ねば無になる、人はすべて死後に仏となる、あるいは、人間は一度しか生まれてこず、それゆえ生きているうちに人生を謳歌すべきだ、と説くものもあります。原因に対する結果、罪の反動としての不幸、これらの考えはもはや存在しないようです。この世の人生は短く、あの世での生活はずっと長い。この世は無常で、明日何が起こるかわからない。そして自分の肉体はどんどんと衰えていく。そのような変化の中でも、変わらずに存在するもの、それは自分の魂であり、そしてそれだけがその人の財産です。

人間は死ぬとみな神の前に出て審判を受けます。その時に問われるのは、あなたは生まれる前に約束したことを果たしたか、ということです。人間として生まれることができたのは、人間としての義務を果たすと約束したからで、それを果たさなければ、その人はそれに対する償いをさせられます。人間としての義務とは、それは神に協力すること、そしてよりよく協力するために、自分の魂を浄化することで、それ以外にありません。つまりそれ以外の行いは、何であろうと、神の目から見たなら良しとはされないことになります。もしそれを忘れて、この世の繁栄を謳歌したなら、あの世で長きにわたる償いをさせられ、今度この世に生まれる時には、正反対の人生を送らされます。かつて楽しく生きたこととは正反対のその境遇は、本人にとっては非常な苦しみとなるでしょう。さらに言うなら、人間として生まれるかどうかも確約されたものでなく、獣や虫として再生するかもしれません。なぜなら、堀田和成先生によると、神にとってあらゆる魂は平等で、人間の魂も、虫けらの魂も、同じように魂でしかありません。神に近づくのに最も近い位置にいるのが人間で、それゆえ神に近づく努力をしないなら、その人は人間である必要はなくなります。自分の身体は自分のもののようであって、そうではなく、本当は神から借りているに過ぎません。それゆえ人間の身体としての人生を、神に協力せずに生きるなら、その人は人間失格という烙印を押されます。そうするとその魂は、この世に誕生するにあたり、魂の行き先を決める神の代理者によって、下等な生き物の身体に入れられることになります。

死んだ後あの世での魂の行き先を決めるのは、堀田先生によるなら、それはイエス・キリストだそうです。そして地獄の世界を管理する方は別におられて、それはヤマの神、日本では閻魔大王として知られる方です。地獄には多くの世界があり、下に行くほど過酷で、恐怖そのものとなるようです。先生はそのいくつかを見せられたそうですが、その中には蛭(ヒル)ばかりいる世界、行く先々で火の手が上がる火炎地獄などがあり、それらの世界で魂が経験することは、この世の行いに対する償いとなっているとのことです。それゆえ人の目を抉った者は、あの世で同じように目を抉られて、人の手足を切り落としたなら、同じようにあの世で手足を切られます。けれどもこの世と違い、あの世では死ぬことがなく、手足もまた生えてくるので、幾度も同じ目にあうことになります。自殺者は幾度も自殺を繰り返して、決して死ぬことがありません。地位や名誉におぼれた者は、魂につけたそれらの穢れを、体ごとはぎとられていき、痛くて叫んでもだめで、しまいには気絶してしまいます。しかし地獄では休息や睡眠は与えられず、それゆえ、永遠ともいえるほどの年月を、その世界で苦しみながら過ごすことになります。このような世界に落ちると、なかなか上がることはできずに、上がったとしても、虫などの下等な生き物として再生してきます。いつの日か人間として生まれるかもしれないが、それは神様だけが決めることで、だれも保証することはできません。

堀田先生によると、お金持ちで正道に関心を持つ人はまずいないそうです。なぜならそのような人はこの世に満足しているからです。この世は満足できるほど安定した世界ではなく、いつ瓦解するかわかりません。けれどもおごる者にとっては、永遠に今の状態が続くと思えてきます。またお金や地位があると、自分は偉くなったような錯覚に陥り、まわりの人々もその人を崇めたりするので、ますます自分を見失うことになります。それゆえお金持ちで正道に関心を持つのは、前世でそれなりに努力した人に限られるとのことです。この世で地位の高い人や権力をふるった者は、死後には地獄に落ちる可能性が非常に高く、注意が必要です。そのような人を見て我々は羨ましく思いますが、真実はイエス様が言う通りで、この世で恵まれた人はあの世では恵まれないのです。あの世はこの世とは正反対の世界なのです。だから羨ましく思わなくていいのです。キリスト教徒を殺害したローマ皇帝ネロ、そして日本の戦国武将の幾人かも地獄に落ちており、いまだにそこから抜け出せていないそうです。彼らは多くの人に恨まれており、それらの人々の怨念が晴れない限り、そこから救われないそうです。何百年、何千年も地獄で苦しむとは、まことに恐ろしいことです。ことに宗教家は注意が必要です。もし間違ったことを説くなら、その人はあの世で裁かれ、それ相応の世界に落とされます。イエス様の言葉に「これら小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方がましである」(ルカ福音書17‐2)とあります。あの世の地獄で裁かれるよりも、この世で罪を償ったほうがまだましだ、という意味にもとれます。それゆえ立場が上になるほど、自分の言動には最大限の注意が必要になります。

ほとんどの人が死後、迷界という世界に落ちていく事実を知るなら、そのような人々に自分を認められても、少しもありがたく思えないでしょう。けれども愚かにも、人間は世の人々に称賛されたいと願います。そのように人々に称賛されても、心が平安でいられる人はまずおらず、必ずおごる心が生まれてきます。心がおごれば、それは滅びに至る道を歩いていることになります。それゆえ人に認められないことは、本当はありがたいことなのです。堀田和成先生も「成功しなかった人は、むしろ神に感謝すべきなんです。皆さんの中にも将来、有名になる人が出てくるかもしれませんが、その場合、注意しないと、あの世に帰ってからが大変ですよ。本当に、地位とか名誉の世界は怖いのです。よくよく注意する必要があります」と警告しておられました。さらに「俺は地獄に落ちても平気なんだ、という人がよくいますが、今、落ちてないからそう言えるだけで、いざ実際に落ちたら大変なんです。そうでしょう? 病気になって苦しければ、だれでも助けてくれ、となるでしょう? 私は子供の頃、百日咳にかかりましたが、息ができなくなるんですよ。ばたばたと走り回って、ようやく息ができるようになるんです。地獄もあれとまったく同じなんです」と言われたことがあります。地獄ではそのような苦しい状態がほぼ永遠に続くそうです。これはほんとうに恐ろしいことです。このように恐ろしい結果をもたらすのにも関わらず、多くの人がそれらの地位、名誉、お金を求めて奮闘しています。転倒妄想という言葉があるように、本当に人間は愚かな生き物としか思えません。インドの宗教書の中には、著者名がどこにでもあるような名前で、その経歴などが全く不明なものが多くあります。おそらく彼らは自分を誇示することの愚かさと危険性を十分に知っているのでしょう。「滅びに至る門は大きく、その道は広い」(マタイ福音書7‐13)