人を見ず神を見る

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堀田和成先生がよく言われる言葉に「人を見ず、神を見る」というものがあります。「人を見る」とはどう言うことかというと、それは、他人の言動を見て心が動かされ、知らないうちに信仰者である自分を忘れて、怒りや疑いに流されることです。俗世間を見ていると、特にニュースなどを見るなら、いつのまにか人を批判する思いになり、それを当然のことと考えてしまいます。大切なのは、それら自分の心を迷わすものから、自分を離すことで、そのために虚心の祈りがあるとされます。自分が怒ったり、また相手を批判しても、決して相手が変わるわけではなく、また自分が正当化されることもなく、自己満足に終わるだけです。そうして平安な心を失うなら、自分が損をするだけです。大切なことは、自分が平安な心になることで、これを忘れるなら、いつのまにか修羅の自分に落ちていきます。ここで考えるべきことは、いずれ誰もが死んでいきます。善人も悪人も、同じようにこの世を去ります。そのあとに残るのは、自分の心でしかありません。その心が荒れ果てたなら、自分の人生も荒んだものになります。悪人を打倒して自己満足しても、そのひとときの栄華は、陽炎に過ぎないでしょう。

信仰の世界においても、「人を見ず、神を見る」という言葉は当てはまります。完全な人間などこの世にはひとりもおらず、誰もが欠点、カルマを持っています。もし完全にカルマがないなら、この世に生まれてくることはありません。無理なものを相手に求めて、信仰を捨てるなら、自分の益になることはありません。では、もし指導者に疑問を抱くなら、どうすれば良いか?

堀田和成先生は、はじめの頃、このように言っておられました。「汚い袋の中に宝石が詰まっていると考えればいいのです。話の中で、自分に益となるものを得て、その人は見ないようにするんです」と。人間は誰もが、ダイヤモンドのような魂を持っています。けれどもそれはカルマによって覆い隠されています。時折、その強い光ゆえ、内側から神理の光があふれてくるようです。

キリスト教の歴史はある意味、血塗られています。神の名の下にエルサレムを侵略したり、またイスラム教徒やユダヤ教徒を迫害した事実は、信仰とはかけ離れています。しかしそのような歴史の中でも、聖書は凛々しく光を放ち続けて、人々を惹きつけています。もしそのような、信者と称する人の言動に迷ったなら、誰もキリスト教など信じなくなるでしょう。けれども、それらの人々とは関係なく、神理の光は輝き続けています。その前には何も妨げるものは存在できないようです。堀田先生によるなら、イエス・キリストはしばしば、信じる者の前に姿を現して、啓示を与えてくれるそうです。キリスト教が、そのような暗黒の歴史を経ながらも、未だに光を放ち続けるのは、単に聖書の力だけでなく、キリストその人が背後で力を注ぎ続けているのだろうと思います。それゆえ、我々はただ「キリストだけを見れば良い」ということになります。つまり神だけを見ていけばよいということです。

先生自身、年を経るにつれて、この、「人を見ず、神を見る」という言葉の重要性を、ますます認識するようになった、と言っておられます。この言葉にはもっと深い意味があり、心境が進むにつれてそれが明らかになるようです。ある人が「どうすれば神だけを見れるようになるのでしょう?」と聞いたところ、先生は「たえず祈ってください」と言われます。さらに「法然は1日3万回、念仏を唱えよと言いましたが、正道の祈りは一回でもいいのです。一回でも心から唱えるなら、それは神につながります」、「けれども口先だけで唱えて、心が伴わなければ何にもなりません」、「本当は祈りだけでいいんです。心から祈るなら、迷いや悩みは自然に解決されていきます」最後は結局、虚心の祈りになるようです。