被害者意識

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偕和會の神理学修会は、現在、バガヴァット・ギーターの教えを中心として進められていますが、以前は別バージョンのものを資料として使っていました。その第1ステップの最初に出てくるのが「被害者意識」についてでした。つまり人が信仰に関心を持つのは、被害者意識からくる「自分はどうしてこんな不幸に遭わねばならないんだ」という思いのようで、また最後までつきまとって、自分の足を引っ張るのも、この被害者意識であるからのようです。

堀田和成先生はよく「誰もが被害者意識を持つが、加害者意識を持つ人はほとんどいない」と言われます。加害者意識とは、自分が人に被害を与えたという自覚ですが、つまり、これを言い換えると、人間は人からされたこと、言われたことを根に持って、恨んだりするが、自分が人を傷つけたり、苦しめたことを知る人は非常に少ない、ということになります。このように言われると、誰もがそれを否定できないと思います。自分が人を悲しませたことを自覚できる人は、自己反省力の優れた人といえます。自分を正しく振り返れる人は非常に少ない。なぜなら、自分にとって自分ほどかわいいものはないからです。このことはヴェーダにも書かれることで、この場合、自己とはアートマン、つまり神とつながった、本来の自己なのですが、我々の心はその自己の延長線上にあるもの、つまりアートマンの波動を受けて機能するものなので、その自分を否定するような思い、つまり自分の過ちを認めることは、自分という根拠がぐらつくように思えるからです。

自分が幸福感に満たされていると、被害者意識はあまり出ないものですが、自分の境遇が喜ばしくない場合、どうしても周囲の人と比べて、とりわけ幸福な人と比べると不満が出て、被害者意識がムクムクと沸いてきます。こういったことを友人に語ったとき、彼は「けれども、幸福って、心が感じるものなんじゃないかな」と言われて、はっとしました。堀田先生のよく言われる言葉で「人を見ず、神を見る」というのがありますが、この場合もこの言葉が当てはまるように思います。「人を見る」と言うことは、この場合、比較するともいえますが、他を見て比較する、これこそがこの世における苦悩の原因で、この思いを超えるために人間はこの世に生まれてきたともいえるようです。つまり人間の精神的進化は物質的価値観を超えていくことにあり、それこそ、いかなる環境でも神に感謝し、神の意志に殉じて生きることにあるようです。また、神だけを見ていくにはどうするか、という質問に対して、先生は「目に見えるものを、いったんは否定する必要がある」とも言われます。そしてそのように外界からの刺激を超えるには「祈り」をたえず繰り返すことだ、とも言われます。そのことゆえ先生は「生活の中に祈りがあるのではなく、祈りの中に生活がある」ことが肝要であると言われます。

話を戻して、被害者意識に関して先生はしばしば良寛和尚の逸話を語られます。あるとき良寛さんは、船に乗って川を渡っていたところ、船を漕いでいた船頭は、この和尚はほんものかどうか試そうと、良寛さんを川に突き落としてしまいます。良寛さんはしばらくもがいていましたが、やがてもがくのをやめ、川の流れに流されていきます。それを見て船頭は慌てて良寛さんをすくい上げ、両手をついて謝るのですが、彼に対して良寛さんは「あなたは何も悪くはない。このような目に遭うのも、自分の過去の業(過ち)がなしたこと、そしてあなたが私を川に落としたことで、私のそんな業もひとつ消えました」と感謝したとのことです。それを聞いて船頭は、まさしくこの和尚は本当の信仰者だと、感激したそうです。人間はだれも自分がなした罪を知ることはありません。とりわけ自分が前世でなした罪など、知ることは不可能でしょう。けれども、それらの罪が現在の自分の環境を形成しているとしたなら、誰もが自分の境遇に不満は言えなくなってしまいます。

実際、被害者意識で重要なのは、親への被害者意識でしょう。親に素直に感謝できる人は幸福です。そして幸福な人生を送れるでしょう。けれどもほとんどの人が親に対する被害者意識を持っています。そのような人はどのように考えればいいか? この場合、自分はそのような環境を超えるため、この世に生まれてきたと考えるべきでしょう。人間は弱いように見えても、本当は大変な力を持っています。そのように超えがたき環境も超えていく力を、人間は備えています。勇気と、過去を忘れる努力を、続けることです。けれども、世の中にはいろいろな親がいて、不幸と言わざるを得ない子供も、実際にはいます。そのような人に、親に感謝しろ、とは、はっきりとは言えないでしょう。堀田先生も「子供が不幸になる一番の原因は、はっきりいって、親にあります」といっておられます。けれども人間は一人で生きているのではありません。助け合い、励まし合うために、多くの人とともに生きています。そのような人に対しては、教条的に価値観を押しつけず、励ましの言葉を送るべきでしょう。そのような人々が受けている悲しみは、自分が受けるであっただろう悲しみと知り、心を込めて、彼らが幸福になるよう、祈りを捧げるべきでしょう。つまりあなたの目の前に現れていることは、あなたの心のためにある、あなたが手を差し伸べるために、そのように現れているということです。